第七章 彼方と傷(2)

洋子との別れから2年が経過する。コンサートの審査員をつとめた蒔野は、久しぶりに人前に姿をあらわし、そして懐かしい人と再会するーー。
2年という月日は、蒔野と三谷の関係を変化させるのに、十分だった。

 五人の審査員中、蒔野は最年少で、必ずしも発言が多かったわけではなかったが、彼のその指摘が、結果を左右したことは明らかだった。

 蒔野は、いやいや、と小さく首を振ると、慎みからというより、何となく居心地が悪そうに、フカヒレのスープを少しすすって、ナプキンで口を拭った。そして、疲労と緊張とで表情が解れない入賞者たちに、急に何かを思い出したように喋り始めた。

「今朝そう言えばさ、—ちょっと時間があったから、ホテルの周辺を軽く散歩してたんだよ。そしたら、前からハッとするようなものすごい美女が歩いて来て。何て言ったらいいのかなあ、スカーレット・ヨハンソンとリン・チーリンを足して二倍にしたような。」

「二倍!? そんな人、いるんですか?」

 向かいに座る若いギタリストの一人が、少し笑って目を見開いた。

「いたんだよ、それが。モデルか、女優か、……一般人じゃないだろうな。—で、その彼女の残り香がさ、また何とも言えない、いい匂いだったんだよ。深く吸い込むと、クラクラしそうなくらい。つけたての香水じゃなくて、ほのかに彼女自身のからだの匂いが混ざってるみたいで。」

「あとを追わなかったのか?」

 スペイン人の審査員の一人が、にやっと笑って話に加わった。しかし、蒔野はそのさして意外でもない、からかい混じりの問いかけに、一瞬、不意を打たれたような顔をした。そして、すぐに気を取り直して続けた。

「いや、そこまでは、……ま、とにかく、しばらくその彼女の残り香に包まれながら、朝の散歩を楽しんでたんだよ。けど、なんか妙に強い香水で、歩いても歩いても、通りにその匂いが残ってるんだよね。振り返っても、もう随分と離れてるのに。屋外でこの調子なら、部屋の中だとどうなるんだろうなんて思いながら、まぁ、でも、美女の香りならみんな喜ぶのかなとか考えたり。—で、さすがになんか、おかしいって気づいたんだよ。」

「……ええ。」

「で、ちょっと、早足で歩いてみたら、匂いが薄まるどころか、追っかけて来るみたいに濃くなるんだよ。」

「?」

「それで、何の香水なんだって彼女を振り返って、ふと前を向いたらさ、目の前をおじさんが一人、歩いてるんだよ。—その人だったんだよ! 匂いの元は。」

 息を呑んで話に引き込まれていた一同は、ほとんど困惑したように失笑して顔を見合わせた。

「何の変哲もない、ものすごくリアリティのあるおじさんだったな、中肉中背の。髪は黒々としてるんだけど、てっぺんだけ禿げてて。改めて意識して嗅いでみると、やっぱり、その人なんだよ。妙にいい匂いで、見た目とのギャップが激しくて。何なのかな?」

「洗剤じゃないですか? 最近、香水みたいに匂いの強い洗剤、ありますよ。僕も飛行機で隣の席の人がそれで、一度、死にそうになったことがありますから。奥さんがそれで洗濯してるとか。」

「あー、洗剤か。なるほど。……ま、とにかくこっちはさ、彼女の存在よ、全身に染み渡れとばかりに香りを吸い込んでしまってたから、そのおじさんのワイシャツに汗が滲んで、皮下脂肪がたっぷりついた柔らかそうな背中を見てたら、気分が悪くなっちゃって。早くどっか新鮮な場所で深呼吸して、血中の酸素を総入れ替えしないとって、渡らなくてもいい信号まで渡って、……」

 蒔野は、ギタリストとしてのこの二年間の自分の不甲斐なさを、嫌と言うほど自覚していたので、大層な選評をして褒められたことに、忸怩たるものを感じた。それで話を逸らしたいのと、入賞者たちをリラックスさせるつもりとで、またつい馬鹿な話をし始めてしまったのだが、あまり達者じゃない英語だったせいもあって、思ったほどはウケなかった。

 丁度その、しんとなったタイミングを見計らったかのように、後ろから、「蒔ちゃん、」と日本語で声を掛けられた。

 振り返ると、水色のストライプのシャツを着た、痩身の男が立っている。旧知のギタリストの 武知文昭 たけちふみあき だった。蒔野は、ああ、と笑顔を見せて立ち上がった。

「久しぶり。二年ぶりくらいかな? 今着いたの?」

「ううん、コンクール会場にいたよ。空港から直行して、荷物があったから、終わって一旦ホテルにチェックインしてきたんだけど。」

「そうだったの?—今回は、ありがとう。急なお願いだったのに、申し訳ないね。」

「こっちこそ、ありがとう。なかなか海外で演奏する機会もないし、めっちゃ楽しみにしてる。蒔ちゃんの代役が務まるかどうかはわからないけど。」

「いやいや、みんな喜ぶよ。俺はこんな体たらくで面目ないけど。」

「最近、どうしてたの? 心配してたよ。」

「ああ、……ギターはもう一年半くらい弾いてないんだよ。触ってもない。」

「え?」

 昔から生真面目を絵に描いたような武知は、もっとくだらないことまで含めて、蒔野の話に、いつも素直すぎるほど素直に驚いた。蒔野は、彼のそうしたナイーヴさが好きだったが、あまり深刻な顔をされると、急に取り残されたような孤独を感じるものだった。子供の頃に人が傷つきやすいのは、何かにつけて友達に驚かれるからだろうと、蒔野は思った。

 三日練習を怠るだけでも、どれほど指が動かなくなるかは、ギタリストなら誰でも知っていることだった。一年半もギターに触れていないなどと言えば、再起は難しいのではないかと考えてもおかしくなかった。実際、武知だけでなく、台湾に来てから会った他のギタリストらも、多かれ少なかれ、そうした懸念を表情に過ぎらせていた。先ほどの選評に対する賛辞にも、幾らかは慰めや励ましの意も込められているのだろう。

 蒔野は、

「まあ、積もる話もあるし、座ろうか。」

 と椅子を詰めて、彼のための場所を作り、店員に食器や箸の一揃いを頼んだ。

 ビールを注ぎ、軽く乾杯すると、武知の方から口を開いた。

「今日は三谷さんは?—ああ、もう三谷さんじゃなくて蒔野さんだけど。昔のクセで、ついそう呼んじゃいそうになるね。早苗さんって呼んだ方がいい?」

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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