「どうにも、セリフが決まってないからなぁ」
大石さんがぼさぼさの髪を掻きむしり、開いた絵コンテを作画デスクに投げた。最終回で、ケイゾーがシュオンに埋め込んだファイルを明かす重要なシーンだった。その一連のカットは、大石さんがレイアウトから原画まで受け持つことになっている。だが肝心のファイルの中身が決まっていないので、それを口にするシュオンの表情を描きようがないのだ。
「すいません」
オレは恐縮して、大石さんのデスクにお茶を置いた。「星山さんとは、電話で毎日のように話してるんですけどね。話せば話すほど、煮詰まっちゃって」
「いいんだよ。何もキミが責任を感じることはない。俺も余裕があれば、何パターンか表情を作ってさぁ、みんなに見てもらってもいいんだけどね」
山と積まれた原画を恨めしそうに見て、疲れた笑みを浮かべてみせる。ふつうは一話につき一人の作画監督がすべての原画に目を通す。だが最終話はそれではとても間に合わず、作監クラスの人が四人投入され、さらに総作画監督として大石さんが最終チェックを入れることになっている。作画デスクに備え付けられた棚では足りず、隣の机まで大石さんのチェック待ちの原画が積まれていた。
最終のアフレコが、いよいよ三日後に迫っていた。
東京アニメの作画室はもう何日も前から臨戦態勢となっていて、大石さんも二日家に帰れないでいた。作画デスクが三十台ほどのこの部屋には、ふだんは自宅で作業をしているフリーの原画マンにも詰めてもらっていた。椅子が空いている机の下では、連泊が続くアニメーターたちが
「キミも寝てないんだろ」
大石さんがお茶を啜ると、オレの顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。適当にみんなで交代して寝てますから。大石さんのように、その人じゃなきゃできない仕事でもないっすから」
寝不足で妙な感じに頭が冴えている。日ごろ実感していることが、思わず口をついた。
「その人じゃなきゃか・・・」
大石さんはすこし照れたような笑みを浮かべ、だがいつもの何か絵のアイデアを思いついたときのように、鉛筆を手繰り寄せた。「つまりさ。このケイゾー・ファイルも、ケイゾーじゃなきゃ思いつかないものじゃないと、つまらないわけだよねぇ」
「はい」
美島こずえと同じように、真理をついてくる。大石さんの鉛筆の先が、たちまちシュオンの顔の輪郭を描き出す。
「だからシュオンは、ケイゾーに言われて、はっとなるはずなんだ。なにか疑問を感じたり、いきなり喜んだ表情を見せたりするんじゃなくてね。ケイゾーに意表をつかれて、単純に言われた言葉をおうむ返しに口に出してみる」
シュオンの左の眉が描かれていく。大石さんはいつもキャラクターを描く時は、まず左の眉を決めるという。そのキャラがその時いったいどのくらい眉に力を込めているか、それを決めるんだよ。そうするとそれに準じて、全体の表情が浮かび上がってくる。いつだったか、そんなことを話してくれた。
「つまり、シュオンはあくまでもニュートラルな顔をしてるってことでしょうか」
大石さんは、小さく「それだ」と言って、鉛筆の先でオレを指した。
「柏原ファイルだねぇ」
「なんすかそれ?」
「自分じゃ気づいてないだろうけどね。すくなくとも俺には、キミは時たまケイゾー・ファイルみたいなことを投げかけてくれるんだよ」
「げぇ、やめてくださいよ。調子に乗りますよオレ」
大石さんが笑い、だがすぐに線画台(下からライトが当たり、重ねた紙が透視できるようになっている)に向かって本格的にシュオンを描きだしていた。オレのふたつの耳が、たちまち熱くなっている。大石さんのような人にそんなふうに言われてしまうと、ふだんイジケタ性格の奴は、体温調節が効かなくなるのだ。慌てる必要もないのに、忙しい振りをしてチェック済の原画をかき集めた。
大石さんが作業しながら言った。「行く?」
「行きます。このシュオンのカットが上がったら、オレに教えてくれますか。このカットだけは、オレ、絶対色まで付けてみせますから」
調子に乗って言った。オレにしかできないことっていったらオーバーだけど、今のオレにやれることはこれぐらいしかない。
「おお、頼むよ」
大石さんは、すでにニュートラルな表情のシュオンを描き上げ、その上に別の紙をのせ口パクを描きはじめていた。下から当てられたライトの明かりで、シュオンの顔がまるで生きている少女のように浮かびあがり、それはセリフをしゃべる美島こずえにすり替わっていった。美島こずえの唇が、スローモーションで動く。誰かから投げかけられた言葉を、彼女の声が繰り返す。そのセリフは、オレが彼女に向かって投げた言葉だ。死んだも同然だった彼女は、そのひと言で様々な記憶を呼び覚ます・・・。
結局そのカットは、最終話のアフレコの前の日に動画があがった。デスクの佐藤さんは、それをすぐに撮影に回せと指示した。線撮りにしようというのだ。それでオレはこっそりそのカットを持ち出し、彩色の部屋に忍び込むことになった。
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