長崎に彼女に会いに行くことも一度ならず考えた。実家の場所まではわからなかったが、宿泊予定のリゾートホテルで待っていれば、会うことも可能かもしれない。そこからメールでもう一度連絡を取れば。——しかし蒔野は、そこまでのことはしたくないというより、洋子に対して、そこまでのことを自分に
それでも彼は、散々思い迷った挙げ句、洋子が東京に戻ってくる日には、羽田空港まで、彼女に会いに行くことにした。
別れ話になることは覚悟していたが、せめてもう一度、話がしたかった。そうせぬまま別れられる相手では決してなかった。穏やかに話をすることが出来るのなら、自分は、これまでとは違ったかたちでの関係の継続を、彼女に求めるかもしれない。未練がましくはあったが、せめて終わりというのではなく、当面の関係の休止ということにでもしたかった。いつかまた、それぞれの人生をもう後戻りさせる心配もないほど進めてしまったあとで、安心して再会する時までの束の間の関係の休止。……
空港の到着ロビーで、固唾を呑んで、洋子が出てくるのを待っていた蒔野は、最後の瞬間まで、そんなことを考え続けていた。手荷物引取り所の人の群をガラス越しに探し続けたが、ベルトコンベアが停止し、最後の一人がスーツケースを引っ張って出て来るまで、とうとう洋子の姿を見つけることは出来なかった。
事前に羽田まで会いに行くことはメールで伝えていた。そして、自分はこの再会の機会さえ避けられたのだと感じた。洋子の身に何かあったのではという懸念は、依然としてあった。しかし、そこに希望を見出そうとする自分に耐えられなくなっていた。
蒔野は、もう自分からは一切連絡を取らぬことにして、あとはただ、彼女からの連絡を待つことにした。何の音沙汰もなければ、自分でその感情の始末をつけるより他はなかった。
二週間経ったある日の午後、蒔野の許には、洋子から一通のメールが届いた。極短い文面で、リチャードという名のかつてのフィアンセと縒りを戻し、結婚したと書かれていた。
蒔野は茫然として、しばらくパソコンの画面の前から動くことが出来なかった。 引き裂きかけたまま残していた彼女への思いを、よくやく胸の裡で最後まで裂いてしまった。その苦痛に、どう耐えるべきかはわからず、せめて彼女を憎むことさえ出来るならばと真剣に願った。
◇第七章 彼方と傷(1)
二〇〇九年の夏、蒔野は、新たに審査員を務めることとなった、台北国際ギター・コンクールのために、一週間ほど台湾に滞在していた。
元々は、祖父江誠一が審査員を務める予定だった新設のコンクールだが、丁度、二年前に脳出血で倒れて以来、今もまだリハビリ中であるために、自然な流れとして、蒔野に白羽の矢が立ったのだった。
年齢的にも実績に於いても、彼が審査員を務めることには異論がなかったが、業界誌では、インタヴュー付きのちょっとした記事になっていた。と言うのも、蒔野はこれまで、どれほどコンクールの審査員を乞われても、国内外を問わず、頑なに辞退し続けてきたからだった。
今回は、祖父江の推挙もあり、断れなかったというのが本人の弁だったが、年齢が態度を軟化させたのに加えて、どうも、金に困っているらしいとも囁かれていた。
無理もなかった。二年前に《アランフェス協奏曲》と《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》という二枚のアルバムを発表して以来、蒔野は、表だった演奏活動を一切、止めてしまっていたからである。絶賛を博した二〇〇六年秋のあのサントリーホールでのコンサートを録音した前者は、レコード・アカデミー賞を受賞し、後者の表題曲は、ウィスキーのテレビCMに採用されて評判となっていた。しかし、販促のためのコンサートは行われず、リサイタルだけでなく、客演、共演のかたちでさえ、彼の姿を舞台で目にすることはなくなっていた。
テレビやラジオでは、時折姿を見かけることがあり、特に重病を患っているということでもなさそうだったが、少し太ったのか、顔は浮腫んでいて、冗談を言って笑っていても、以前の溌溂とした輝きがなかった。関係者の間では、どうも酷い鬱病らしいだとか、手を故障してもうギターは弾けないらしいといった憶測も聞かれたが、その出所が、彼を心配する者なのか、彼に嫉妬する者なのかはわからなかった。
台北のコンクールの本選は一日がかりで、朝の十時から始まって、終わったのは夕方の七時半頃だった。結果が発表されて授賞式が執り行われると、優勝したフィンランド人のギタリストを始め、三位までの入賞者と共に、審査員らはレセプション会場に移動した。
台北で
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