日本建築論

​明治の国家事業—宮殿造営と赤坂離宮:第9章(2)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。


○明治のプロジェクトX

 江戸時代から明治時代に変わり、天皇が京都から東京に行幸すると、新しい住まいを用意する必要が生じた。もっとも、いきなりのことだから、最初は新築ではなく、江戸城を東京城・皇城に読み替え、将軍の御殿に暮らしている。だが、1873(明治6)年5月、女官の不注意から出火し、西の丸御殿が焼失してしまう。したがって、近代の天皇を前提とした新しい施設をつくらねばならない。ちなみに、明治宮殿が完成するまで、天皇は赤坂離宮の仮皇居に住んでいたが、所詮は紀州藩の古い屋敷を増改築したものでしかなく、皇居御造営事務副総裁の宍戸璣(ししど・たまき)が、国家的な行事の場としてふさわしくないと述べていたように、外国にも見栄を張れる壮麗な新宮殿の竣工が急がれていた(T.フジタニ『天皇のページェント』NHKブックス、1994年)。が、どのようなデザインにするのかは簡単に決まらず、紆余曲折を経て、ようやく完成したのは、火災から15年後の1888年(明治21年)である。

 建築史家の桐敷真次郎は、『明治の建築』(日本経済新聞社、1966年)の「皇居造営と様式論争」の節において、宮殿の再建は明治中期の建築界にとって最大の課題のひとつだったと記している。「どこの国でも、王宮はその時代の建築を代表する作品となるのが当然である」からだ。実際、鎖国していた江戸時代とは違い、明治時代は他国との外交が生じることで、必然的にヨーロッパの王宮と比較される状況が生まれている。そして対等であることを提示するだけでなく、デザインにおいて日本的なものとは何かが求められた。

 後に詳しく述べるが、明治宮殿は、さまざまな議論が巻き起こり、結果的に京都御所にならう和風の外観となった。が、室内では西洋的な意匠や生活の様式も混入している。例えば、折上げ格天井と壮麗なシャンデリアの組み合わせだ。ゆえに、鈴木博之はこう述べている。「明治宮殿の特質は和様のうえに西洋風宮殿の意匠を重ねた、建築表現の重層性にあるといえよう」(『近代建築史』市ヶ谷出版社、2008年)。

 一方、本格的な洋風建築として登場したのが、1909年に竣工した赤坂離宮である。桐敷は、ベルリンの国会議事堂やパリのオペラ座など、19世紀にヨーロッパ各地でネオ・バロックが流行していたことを踏まえ、日本でも明治後期の大建築によく使われたとし、赤坂離宮はそのメルクマールとなったという(前掲書)。すなわち、「明治建築最大のモニュメント」にして、「明治日本の建築界の名誉をかけて、総力を結集した大事業」であり、「幕末から営々と築いてきた洋風建築技術の総決算」だった。

 なお、これは後の大正天皇となる嘉仁親王が成年に達し、婚儀も迫ったことから、もともと東宮御所としてつくられたものである。つまり、皇太子の住まいだったが、昭和の大改修を行い、1974年からは国の迎賓館として使われている。最近の近代建築史では、明治宮殿と赤坂離宮がそれほど大きなハイライトとしてとりあげられないように思うが、明治100年の節目に書かれた桐敷の著作は、デザインの前衛性だけでなく、当時の社会における建築のインパクトも考慮して、この二つを重要な国会事業だったと振り返っている。


○迷走した明治宮殿

 天皇の新しい住まいをつくるという目的は明快だったが、明治宮殿の建築プロジェクトはひどく迷走した。ここで鈴木博之監修『皇室建築』(建築画報社、2005年)などをもとに、その経緯を振り返るが、現在の新国立競技場の状況を想起させるかもしれない。

 西南戦争などの政情不安の影響もあって実現までに長い時間をかけることになるが、とくに和風か、洋風かの綱引きが激しかった。当時はモダニズムが誕生する前であり、無国籍的なモダニズムと日本的なものをいかに融合させるかではなく、この明快な二項対立が論点だった。まず最初は1876(明治9)年、フランス人の建築家ボアンヴィルに謁見所、階食堂の設計を依頼し、ネオ・バロック様式のデザインによって、9月に赤坂離宮で着工する。だが、工事費が増大したり、途中のレンガ壁に亀裂が入るという致命的な問題が起きて中断される。震災が起きる日本において組積造は本当に大丈夫なのか、と心配されたのだ。後に1891(明治24)年の濃尾地震が発生し、西洋風の建築の被害が大きかったことを契機に、日本独自の耐震構造の研究が発展していくが、それに先駆けた不安だったといえる。

 ともあれ、白紙撤回に伴い、皇居の敷地も再度検討され、1879(明治12)年、西の丸に西洋風の謁見所と宮内庁庁舎、山里地区に日本風の奥向御殿を建設することが決定した。なお、前者をお雇い外国人を抱えている工部省、後者を宮内省が分担している。が、地質調査を行うと、石造を建てるには地盤が悪いことが判明し、1880年、西の丸に木造の和風宮殿をつくることになった。しかし、造営のプロジェクトに洋風の推進者である榎本武揚が関わることで、再び洋風宮殿案が浮上し、1882年、山里にお雇い外国人のジョサイア・コンドルの設計による洋風の謁見所、吹上に奥向御殿を建造することに決定する。が、またもや変更の議論が起きる。山里の謁見所は皇居の正殿として不向きとされたからだ。コンドルはボアンヴィルの赤坂の謁見所案を踏襲することを命じられていたらしく、その条件を解除すれば、適切な皇居正殿を設計できると主張したが、認められなかった。彼は耐震の欠陥をなくすために、鉄筋レンガ造も提案していたという。

 だが、最終的に1884(明治17)年、西の丸と山里に木造の和風宮殿を建てることに再度決定された。膨大なコストが、その一因とされているが、桐敷はレンガ造の技術が向上していた時期であり、木造宮殿の工費も坪600円で安くはなかったという。前述した宍戸璣は、おそらく明治憲法が発布される1890(明治23)年の国会開催の前年までには皇居を完成すべきと主張していた(『天皇のページェント』)。なお、当初の予定では250万円を目標とした皇居の造営費は、約396万8千円かかっている。一般からの献金もあったにせよ、当時の国家歳入が六千万円余だったことを考えると、かなりの額だろう。明治宮殿は、木子清敬(きこ・きよよし)らが設計し、京都御所を想起させる和風の外観に対して、折衷的な意匠を室内に設け、「新しい意匠と古くからの伝統を織り交ぜることによって「新しい伝統」を生み出していった」(『皇室建築』)。また多くの部屋が畳ではなく、絨毯を敷き、生活は椅子式がメインの洋風である。明治以前の日本では考えられない、まさに近代の建築なのだ。


○外国人設計者と国家プロジェクト

 一連の流れを整理すると、ボアンヴィル→木造案→コンドル→木造実施案という風に三度もひっくり返っているが、日本の建築における近代を開始させたお雇い外国人を入れるかどうかをめぐって揺れ動き、最終的に排除したかたちだ。つまり、和風か洋風かという構図は、そのまま木造/組積造であり、日本人か外国人かという設計者の選択にもつながる。

 鈴木博之は、外国人の建築家が日本で仕事をした四つの波があったという(『日経アーキテクチュア』1988年8月22日)。明治のお雇い外国人、大正の実務的なアメリカの建築事務所、戦前に本国で居づらくなって日本に滞在した作家(ライトやタウト)、そしてバブル期に次々と来日した世界の有名建築家である。とすれば、木造の皇居造営は、第一回目の波にぶつかっていた。一方、吉村順三が関わった昭和の皇居造営は、海外の建築家の作品が少ない、谷間の時代である。21世紀はグローバリズムを受けて、世界各地で起きている現象と同じく、五回目の波が起きてもおかしくないのだが、むしろザハの排除に象徴されるように、日本では閉じる方の道を選んでいる。ちなみに、現在の赤坂離宮と同格の、平成につくられた京都迎賓館は、日建設計が担当した。

 伝統論について言えば、明治宮殿は和風/西洋の駆け引き、昭和の帝冠様式は両者の融合だったが、戦後の縄文弥生論争では、日本の過去からどの時代を選択するかが課題となった。また20世紀半ばは民衆が重要なキーワードだったが、明治の皇居造営では、むしろ国家の顔をどうするかが問われていた。一方、平成の新国立競技場では、国家主導のプロセスが厳しく批判され、実際は逆効果なのだが、ザハ・ハディドをキャンセルしてでも、安ければいいという風潮を招き寄せる。その結果、仕切り直しのコンペでは、「日本らしさ」に配慮することが求められた。今やネット上では、啓蒙的なものをすべて引きずりおろそうとする、ゆるやかな文化革命というべき運動が起きている。やはり撤回に追い込まれた五輪エンブレムにしても、幼稚園児も参加できる幾何学のお遊びだとみなされた。

 もっとも、明治時代には、天皇関連のプロジェクトを通じて、上からの押しつけだけがあったわけではない。天皇の地方巡幸という近代になって始まった新しいイベントでは、当初国からの細かい指示がなく、それぞれの地域がどのような空間で明治天皇を出迎えるかを考えなければいけない機会が生まれたからだ。小沢朝江の『明治の皇室建築』(吉川弘文館、2008年)では、各地の事例を詳細に検討している。彼女によれば、明治天皇の巡幸に際して新築された行在所(あんざいしょ)や御小休所は、地域を超えた共通点が存在し、ほとんどが和風であり、天井や屋根の高さを強調しているという。後者は天皇が椅子式の西洋的な生活を実践したことも、その一因である。また御所や神社を意識した意匠がしばしば用いられた。すなわち、使いやすさに配慮した一時の生活の場というよりも、「天皇という特別な人物のための建物という「格」の表現が最も重視され」、「御神体や仏像を納める厨子に近い存在」だった。小沢は、当時の一般人が抱いていた神様と同じという認識から創造されたものではないかと指摘している。


○ 洋風建築をめざした赤坂離宮

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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ora109pon 明治の国家事業—宮殿造営と赤坂離宮:第9章(2) | 約5年前 replyretweetfavorite

consaba 明治の国家事業—宮殿造営と赤坂離宮:第9章(2)外国人設計者と国家プロジェクト| 約5年前 replyretweetfavorite