「いいの、今更どうこう言うつもりはないの。ただ、お母さんとそんな約束をしておきながら、出て行ったお父さんはどうなのかしらと思っただけ。幸いわたしは健康だったけど、どこかの年齢で障害でも出たら、お父さん、戻ってきたのかしら?」
「……お父さんのせいじゃないのよ。」
「いつもそう言うけど、離婚の理由をちゃんと言わないから、わたしには永遠にわからないでしょう? わたしは、お母さんに同情してるのよ。お父さん、お母さんと別れてから何してたの? 何年も空白期間があるけど。」
洋子は、話の流れで、以前、蒔野に尋ねられて以来、気になっていたことを訊いたが、家を出るまでの短い時間では、とても話せない内容だろうと思い直した。必ずしも答えを求めているわけではないと示すつもりで、彼女は、朝食の皿の後片付けを始めた。いずれこの話は、今はロサンゼルスに住んでいる父にこそ尋ねるべきだった。
母の方も、首を振って、
「今したかったのは、そんな話じゃないの。」
と言った。そして、目を赤らめて、唇の端を震わせながら、今度は日本語で語った。
「あなたが健康でいることが、わたしにとっては何よりなのよ。わかるでしょう? あなたが生まれてからは、自分の体調よりも、あなたの健康こそが心配だった。それが母親の心情よ。」
「大丈夫よ、わたしは。おかげさまで健康に生んでもらってるから。」
「わからないのよ、こういうことはいつどうなるか。」
洋子は、自分の体調不良を、母が幼時の被爆体験と結びつけて心配していることに戸惑った。後遺症の不安というものは、こんな風に突発的に蘇るものなのだろうか。彼女自身は、そんなことは夢にも思っていなかったが、それとて、母が娘を決して〈被爆二世〉としては育てなかったからだろう。
「大丈夫だから。今、疲れてるのは、イラクに行ったせいよ。それに、……失恋しちゃったから。」
「からだにだけは気をつけなさい。何をするにしても、あなたの自由だけど、もういい年齢なんだから。過信しないで。子供が欲しいんでしょう? だったら、……」
洋子は、首を横に振って苦笑すると、母の目を見つめた。そして、
「わかってるから。——ありがとう。お母さんこそ、体に気をつけて。」
と言って席を立つと、覆い被さるようにして、座ったままの母を抱擁した。
母が小さくなった気がした。無意識だったが、子供の頃には、二人きりのアパートで、同じようにして、よく母から抱きしめられたのだった。
洋子は、予定を変更して、もう一泊、長崎の実家に留まることにした。
ジャリーラを慈しむ気持ちが、一種の責任感として、彼女の精神を保たせていたように、元気そうではあったが、さすがに老いを否めない母の訴えに接したことで、無事にパリに帰らねばならないという思いが強くなった。
蒔野のいる東京に独りで一泊するという考えに、彼女は耐えられなかった。今の穏やかな気持ちのまま、母との思い出に静かに浸りながら、何とかパリまで辿り着きたかった。
それまでは、携帯電話の電源も入れないつもりだった。
あまり惨めな、未練がましい別れ方もしたくないと思えるほどに、洋子は既に現実を受け容れつつあった。
*
洋子と連絡が取れなくなってしまって数日が経ち、蒔野もさすがに、それが何を意味しているのかをもう疑わなかった。
洋子は、自分に会う意志がないのだろう。パリに戻る日までまだ時間がある間は、ひょっとすると、何か連絡があるのかもしれないとも期待していたが、残りが少なくなるにつれて、彼女の決意の固さを実感せずにはいられなかった。
祖父江の意識は未だ戻らず、ただでさえ落ち着かなかったが、日常はその不慮の出来事をも、蛇のような大口で飲み込んで、ゆっくりと消化しつつあった。その重たさが、時間の流れを停滞させ、蒔野の胸を押し潰していた。
最後のメールを読み返して、彼女の心が、既に自分からは離れてしまっているのを感じた。
なぜだろう?——蒔野はふと、実はあの晩、三谷の携帯電話に、何か洋子からメールが届いていたのではないかと思い、連絡して、迷惑メールフィルターまで確認してもらったが、何も届いてはいないとの返事だった。
祖父江の緊急手術による予定の変更は、恐らく、洋子の心の変化の原因ではなかった。そのことを幾ら謝罪してみても、彼女の沈黙は、理由はそれじゃないと、首を横に振っているかのようだった。
蒔野は一度だけ、洋子が彼に対して、金輪際忘れられないような厳しい表情をした時のことを思い返した。それは彼が、パリのレストランで、「地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ。」と告げた時だった。
あの時洋子は、既に蒔野に好意を抱いていたはずだった。しかし、彼のその考えを、彼女は決して受け容れられないという態度で峻拒した。ほとんど、軽蔑の色さえ滲ませながら。
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