第六章 消失点(22)

別れを告げられた洋子は、蒔野にいまの自分を見てほしくないと思っていることに気づく...。

 自分はそして、いつまで、このバグダッドでの生活に適応してしまったままのからだを生き続けなければならないのだろうか? 雷鳴をテロの爆発と聞き違え、見つめられることを脅迫されているかのように錯覚してしまう、こんな滑稽な、馬鹿げた自分を!……

 洋子は、蒔野に会いたくないという自分の気持ちの中に、初めて、何か羞恥心に似たものが混ざっていることを発見した。

 こんな自分を見て欲しくなかった。彼が自分を買い被りすぎているという思いは常々あったが、その高すぎる理想には見合わないまでも、女として、せめて彼の期待に幾分なりとも見合う姿でいたかった。

 洋子は、健康でないということの劣等感を、今ほど身に染みて感じたことはなかった。恥ずかしいという感覚だった。それはまったく不合理な意識で、自分がもし、病身の友人からそんなことを聞かされたならば、

「どうして? 何も恥ずかしいことなんかないでしょう?」

 と首を傾げながら励ますに違いなかった。

 彼女は、そういうかつての自分に、健康な人間ならではの傲慢な眩しさを感じた。

 同情されたくないというような、強い自意識の抵抗ではなかった。ただ、発作に襲われてパニックに陥っているような無様な姿を、蒔野には見てほしくなかった。

 しかし、そんな関係が本当に愛という名に値するのだろうか? 結局、自分たちは、そのまだ遥か手前にまでしか、辿り着いていなかったのではあるまいか。

 母は、どんなふうに被爆の事実を父に打ち明けたのだろうかと、洋子は想像した。恐らく母も、愛する人の前で、自分の体が一度は深刻に放射能に“汚染された”ということが、恥ずかしかったのではあるまいか。自分のこの体では、もう健康な子供は産めないのかもしれないという、何度打ち消してみても頭を擡げてくる、その暗い不安。……

 体調が落ち着くのを待って、帰国前に、せめてもう一度、蒔野に会いたいと洋子は願っていた。しかし、長崎での穏やかな時間の中で、幾分、心の平穏を取り戻すと、むしろこのまま、彼への思いを吹っ切るべきではあるまいかという考えに、次第に移っていった。

 伊王島のホテルまで車で行く道すがら、洋子の母は、運転しながら唐突にこう言った。

「リチャードと復縁したら?」

 洋子は、レイバンのサングラスの隙間から、ちらと覗いているその目を覗き見た。もう昔のように、海外生活の長い日本人らしい、目尻をキュッとつり上げた濃いアイラインの引き方はしなくなっていた。

「彼のこと、嫌いになったわけじゃないんでしょう?」

「そんなこと、出来るわけがないし、そのつもりもないの。もう終わったことだから。」

「もう、あなたのタッジオもいなくなってしまったんでしょう? いつまでもヴェニスにいても仕方がないじゃない?」

 洋子は、怪訝そうに母の横顔を見つめた。

「わたし、その話した? 〈ヴェニスに死す〉症候群?」

「お父さんから聞いたのよ。」

「連絡取ってるの?」

「あなたのこと、心配して連絡してきたのよ、ちょっと前に。」

「そう、知らなかった。—お父さんが言ってたのは、そういう意味じゃないの。わたしがイラクに行ったことを言ってるのよ。本来の自分に立ち返ろうとして、破滅的な行動に走るというのは、間違ってるって。」

「あなたの場合、恋がいつの間にか、そうなってたんじゃないの? あんないい話をぶち壊しにしてしまうなんて、十分に破滅的よ。」

 洋子は、母のそういう皮肉な口ぶりが好きだったが、今はそれに対して、何も気の利いた返事が出来なかった。

 携帯電話の電源は、実家に滞在している間、ずっと切ったままだった。そう決めていたのだったが、再び電源を入れることが、今では怖くなっていた。

 帰国後、自分の生活の場所に落ち着いて、何かあっても隣の部屋からジャリーラが駆けつけてくれるという状態でなら、改めて自分の気持ちを整理して、蒔野にメールを書くことが出来るかもしれない。何日かかってもいい。何度も書き直して、自分の思いを正確に伝えたい。こんな親指一本で済ませてしまうのではなく、机についてゆっくり考えたかった。

 必ずしも返事は期待していなかった。ただ、自分の人生を前に進めるためには、そうした手続きが、いずれにせよ必要なはずだった。

 もし、彼にもう一度会うとするなら、それからだと。……

 長崎を発つ日の朝、二人で台所に立って、昔よくそうしたように母と一緒に朝食を作り、向かい合って静かに箸を進めた。サラダにヨーグルト、バゲットにハムといった簡単な内容だった。

 洋子の母は、しばらくぼんやりと考えごとをしていたが、唐突に口を開くと、英語で、

「見ちゃいられない。」

 と言った。

 洋子は、つと顔を上げて、母を見つめた。母は頬を紅潮させて、英語で話を続けた。

「あなたには話したことがなかったけど、……わたしも、若い頃から本当はあんまり体調が良くなかったのよ。特に、あなたと丁度同じくらいの歳の頃からは。病院に行っても、原因はよくわからなかったけど、……」

「後遺症? 被爆の?」

 洋子の母は、娘がその事実を既に知っていることを察していたように表情を変えなかった。

「どうなのかしら、……わからない。あなたのお父さんには、結婚する前に、一度だけ話したことがあるの。わたしは、健康な子供を産めないかもしれない。それでもわたしと結婚する?って。義務感って言うより、黙っているのが苦しかったから。」

—お父さんは、何て?」

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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