「一緒に展示会の担当してくれませんか?」
草加の一言から、美沙は年末の展示会に向けての仕事もやらなければならなくなった。それは美沙にとって本来楽しいはずのイベントだったが、いまの美沙は純粋にそう思えないところもあった。
1ヶ月以内にひとつも受注ができなければ、子会社へ異動させられてしまうのだから。ただ、それを知っているのは、部長の越野だけだった。最近俄然やる気を見せている草加を前に、美沙は自身の不安を表明できずにいた。悩んでいても仕方がない、と奮起したはずなのに、不安はいつの間にか再び心を支配した。
「おはようございます」
美沙がいつものように始業時間30分前に出勤をすると、一枚のメモがデスクの上にあった。その小さなメモを裏返した美沙は、思わず右手を口にあて、ハッと息を飲む。
坂井虎男:090-⚪️⚪️
えっ? どういうこと?
美沙は咄嗟にそのメモをポケットに隠した。ひな壇の越野の視線が気になった。しかし、チラリと越野に視線を送るも、まったくこちらを気にしている様子はない。
このメモは誰が置いていったのだろうか。筆跡はたしかに坂井虎男のものらしかったが、坂井がこのオフィスにやってきて直接美沙のディスクに置いていったとは思えない。営業部員の仕業であることはたしかだ。いや、特に意図はなく置き忘れているだけかもしれない。そんなことを考えていると、続々と営業陣が出勤してきた。挨拶も少しだけぎこちなくなる。しかし、相手の様子には特に変化が見られない。美沙の勝手な思い過ごしだろうか。
*
外回りを終えた美沙は、最寄りの駅に19時に到着した。
「今日は思いのほか早く到着できたな」
最近の美沙は、20時過ぎに帰宅するのが常であった。しかし考えてみると、一般事務の仕事をしていたときは定時で即行あがり、18時30分には家に到着をしていた。懐かしく思い出されるも、あの頃がよかった、とは不思議と思わなかった。
PASMOを取り出そうとポケットに手を入れると、あの紙が主張するかのように美沙の指に触れた。もちろん、忘れていたわけではない。最寄りの駅から自宅までは徒歩20分。そんな空白な時間が美沙を後押しする。
プルルル、プルルル——
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