高校までスイスで過ごし、アメリカの大学で教育を受け、長くフランスで生活している洋子からすると、母の言葉の味わいは、野趣に富んだとでもいうべきものだったが、しかし、そのそれぞれの言語で、彼女は二人の男を愛し、また彼らに愛されて、曲がりなりにも二度の結婚生活を経験していた。
「それで十分でしょう?」と言われれば、「ええ、もちろん。」と頷くしかなかった。
洋子自身が、母の英語がもう少し下手で、その性格がもう少し引っ込み思案だったなら、恐らくはこの世界に存在してはいないのだった。
子供たちは、長崎に投下された原爆について、いじらしいほど真面目に勉強していたが、世代が世代だけに、その理解には、時々、ハッとするような穴があった。
マンゴープリンを食べながら、平和大使の高校生の男の子が、いかにも不思議そうに洋子の母に尋ねた。
「被爆者の結婚差別は、どうして女の人だったんですか?」
洋子の母は、
「どうしてだと思う?」
と少し微笑んで問い返した。
「男尊女卑だったから、……ですか?」
「そういうこともあるけど、——奇形児が生まれると思われてたからよ。」
洋子は、質問をした男の子のあまりにもナイーヴな反応を複雑な思いで見守った。
母が長崎を「去った」理由を、洋子はただ、「嫌になった」としか聞いていなかった。
父の理解によるなら、母は、結婚差別だけでなく、女性として生きてゆくことの——愛し、愛されて生きていくこと自体の——根源的な不安から、被爆の事実さえ、今に至るまで直隠しにしていた。この無邪気な子供たちにさえ、母は言葉の端々で、「わたし自身は被爆はしていないけれど、……」と断っていた。
ヨーロッパでの母一人子一人の生活は、苦労は多かったはずだが、それでも、日本に帰りたいということを、洋子は母の口から一度として聞いたことがなかった。
にも拘らず、母は長い海外生活の中で、日本語だけは決して捨てようとしなかった。そして、洋子が日本語を、日本で育った子供たちと何の遜色もなく読み書きできるということに強く拘った。
十代になったばかりの頃、洋子は漢字の読み書きが苦手で、自分の将来を考えてみても、日本語の習得にこれ以上時間を費やすのは、無駄ではないかと考えていた。
彼女は、級友たちから「マゾなの?」と呆れられながら、ラテン語とギリシア語の授業を取り続けていた。そして、段々と手一杯になりつつあった。
しかし、洋子の母は、久しぶりに寮から帰ってきた娘のその様子に気がつくと、慌てて日本の近代文学全集を引っ張り出してきて、彼女と一緒に読み始めた。
必ずしも愛読していたわけでもなさそうで、買った時のままタンザクが挟まっていて、ページがパリパリに貼りついているような巻も少なくなかった。しかし、以来、親子は文通代わりにそれらの本の感想を手紙でやりとりするようになり、その段ボールいっぱいの手紙は、今も実家の押し入れかどこかに残っているはずだった。無論、日本語で書くのが決まりだった。
洋子は、長じてそのことを感謝するようになり、ヨーロッパのどんなカフェにいても、ただ母と二人だけの世界に没入できる日本語に特別な親しみを覚えるようになった。
父のソリッチとは、母語で語り合えないだけに、もし日本語をうまく話せなかったら、母とも彼女はその機会を失っていた。
それが、親子の愛情にとって深刻な障害になるとは、必ずしも信じなかった。しかし、母を理解する上では、彼女の「本格的なフランス語」よりも、やはり日本語の方が、より多くのヒントを与えてくれるのは事実だった。
母の複雑な日本に対する郷愁は、娘ながらに理解しているつもりだった。しかし、今こうして、高校生たちと“ちょっと変わった地元のおばあちゃん”として談笑している姿を見ると、その「長崎に帰りたかった」という思いは、洋子の想像以上に強いものだったのだと感じられた。
長い間、長崎に
母が外出し、実家で独りになると、洋子は安堵から、悲しみが胸に広がるがままに任せた。
縁側に籐の椅子を出して腰掛け、氷で薄まった麦茶を飲みながら、遠くで聞こえる船の汽笛に耳を澄ました。少し感傷的な気分にもなった。
眼下の庭先には、祖母が転倒して頭をぶつけたあの石がある。幼い頃、いとことよくままごとのテーブルにして遊んだその石。蒔野との初対面の夜、この人は自分を理解してくれると、真に強く感じられたあの喜びのきっかけとなった話題。……