人間であることのおそろしさ」ゆえ求められる処女性—『されど われらが日々—』の蹉跌[三]

1964年に芥川賞を受賞し、186万部のベストセラーとなった柴田翔『されど われらが日々――』。そこには夏目漱石、森鷗外、芥川龍之介、そして前回の書評である高野悦子や村上春樹に通じる、言わば「青春の考古学」といえる側面があるのでした。
この小説が映し出す「日本近代青年の純粋と性の問題」は未来の私たちとどのような関係性を持つのでしょうか。いま現在にもこの小説が読み継がれている理由がそこにはありました。

 第一章の終わりには、佐野の純粋性の戯画として、文夫と同じ研究室の助手である宮下という男の挿話がある。宮下は最近、横川和子という女性との見合いを勧められたが、その女性が処女であるかを知りたいとして、文夫に接してくる。宮下は学問に自己の純粋性を見いだすから、それに邪魔になる恋愛はしたくないとも語る。なぜ宮下は処女性にこだわるのか。

「ぼくはさっきヴァジニティのことを言いましたが、下らないことにこだわると思われたかも知れない。でも、それを下らないと考えるのは、人間であることのおそろしさを知らないからです。一度でもそういう可能性を知ったら、結婚している相手以外にも異性はいるのだと知ったら、男にせよ、女にせよ、貞節でいられるものではありません。(後略)

 滑稽に描かれる宮下だが、自殺した佐野と類似の純粋性と性の感覚を共有している。また処女性へのこだわりは、1960年代という古い時代を想起させるものであるようありながら、実は現代のネットを覗けばすぐにわかるように、2015年以降の若者の意識のなかにも潜んでいる。処女であることを求める稚拙な心理というよりも、「人間であることのおそろしさ」がそこに関与していることは確かである。

 あえて別の言い方をするなら、一群の若者による別の若者への拒絶である。革命運動だの社会正義だのに自己矛盾も感じない若者、また恋愛において処女性など問わないとして多数の異性と性交を重ねていく若者、そうした若者には死んでもなれない一群の若者が日本の近代には一定数存在し、それが独自の悲劇を形成していく。そのこと自体が滑稽ですらあるのだが事実であり、戦後である。

この世界の意味が「はじめから不在だった」世代

 佐野の自殺の知らせは、物語の必然として、主人公である文夫と節子の関係を変えていくことになる。簡単に図式化するなら、文夫は宮下のような処女性は求めないし、節子は佐野のように自殺はしない。だが、この図式化がまさにその反転の物語を三章以降、構成していくことになる。

 第四章は文夫の過去の物語になる。文夫の虚無的な生き方の由来の物語である。この章もかなり独立した短編の装いをしている。文夫は東大に合格するや、その一つの達成の反動からの虚無感を感じつつ、年上の女学生と性の初体験から、ずるずると他数人の女子学生との性交を重ねるが、いずれも恋愛と呼べるものはなく、虚無感は拡大していた。

 だが、そのことを、恋愛への失望と解するならば、それは誤りである。それはあらかじめ持った恋愛というイメージが、現実によって破壊されたと聞こえる。だが、そうではなかった。それは、恋愛というイメージは、私にははじめから、不在だった。
 はじめから不在だった—それを、私は事実として言う。そこには、多少の羨望はあるとしても、失望はない。私たちの世代は期待とは無縁の世代だ。あるいは、私は、と言おうか。私は、明日起きるだろうことを予め人に教えるところの意味体系を持つ世界には育たなかった。私の前にあったのは、継起する事実だけだった。私は、事実から、世界とは何かを学んだ。私には失望は無縁だった。

 かなりこわばった文体で書かれているが、「はじめから不在だった」という喪失感の感性はかなり明瞭に示されている。佐野は理想との対比のなかで自己の恥辱を発見して自殺したが、文夫にはそうした理想は最初からなかった。ゆえに絶望すらなかった。
 この感性は、「私たちの世代は」として自己の世代の感覚が作者に自覚されているが、これもまた日本近代青年の類型的な心性である。夏目漱石、森鷗外、芥川龍之介などが、「ニル・アドミラリ (Nil admirari)」として語った心性である。本来なら、この言葉は「何事にも動じない」という達観を意味しているが、彼らの心性は、むしろこの世界の意味が「はじめから不在だった」ことに向き合っている。

 私たちは『されど われらが日々—』という作品を読みながら、日本の近代青年の心性の一種の考古学に向き合っている。それはもしかすると、「日本」のという限定性のない、青年の一般的な心性であるかもしれない。青年の前に置かれているのは、無意味な世界であるか、あるいは、無意味としなければ生きられないほどの状況の要請なのか。人は、自身が置かれた時代に由来する、戦争や革命、宗教的な純粋性といった擬似的な意味からの拒絶として「ニル・アドミラリ」を選択することがある。
 さらに言えば、恋愛もまたある種、精神の逃避先として、戦争や革命と同じような擬似的な意味の幻影ともなりうる。こうした青年の心理には、近代日本というある歴史文化的な意味合いがある。単純に言えば、近代社会に生きたいと願う青春は、日本という非近代的な世界に置かれた。佐野が閨閥という権力の因習に取り込まれることをここでもう一度想起してもよい。

いのちと性交の純粋性

 『されど われらが日々—』の考古学はしかし、ただ過去の類型を眺めるだけではなく、後代の青年である私たちの青春の蹉跌から、「生」と「性」の意味がどのように救出されるのかという実験記録の様相をしている。

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