「浅井さん、年末の展示会、マンネリを打破したいって言ったら担当にさせられたんすけど、一緒にやってくれませんか?」
草加も誘いにコクンと頷いてしまった美沙。年末まで自身がこのDNSに留まっていられるのか……不安しかない中、草加の呼びかけにより、営業陣を集めて展示会に向けての会議が行われた。
「草加、お前が任されたんだから、みんなを集めるのはまだ早いんじゃないか?」集まって1分。東條は早々に組んだ足を組み替えて面倒くさそうに言った。
「たしかに、年末までまだ時間はたっぷりあります。ただ、この企画は、僕一人ではうまくいかないと思うんです。皆さん、最近は営業成績のことで頭がいっぱいの様子で、空気もどんよりとしています。だから、展示会でわくわくした気持ちを取り戻しませんか?」
「お前、わくわくした気持ちって、ガキじゃないんだから」
「自分たちがわくわくして仕事をしていなければ、お客様を満足させることはできません」
「草加、いつからそんな綺麗ごとを言うようになったんだ?」珍しく村中が声を上げる。三上は思っていた。すべて坂井の影響なのだろう、と。草加のディスクの下で見つけた坂井の連絡先が記載されたメモの重みを、自身の手帳に感じながら。
「いいんじゃないですか。草加くん、マンネリを打破、でしたよね。まずはこのプロジェクトのスローガンでも決めましょうか」
珍しく人間味のある発言をする三上に、東條も村中も言葉がない。営業成績ナンバーワンの三上が言うのだ。反論できるはずもなかった。草加は三上の助言にここぞとばかりに乗っかった。
「スローガンは……“アリエン”です」
「は? アリエン?」
「今回の展示会のテーマはマンネリを打破、です。“アリエナイ”企画をだしてください。トンデモナイと驚くようなアイデアです」
「どういうこと?」思わず美沙がもらす。
「面白い。いいと思います」三上は口角を上げてニヒルな笑みを見せるも、いつものそれとは少し違っていた。その表情に美沙は驚きを隠せない。ただ、そのひとことに、たしかに面白いのかも、と思わされていた。
「じゃあ、さっそく自分からいきます」草加がその場で勢いよく立ち上がる。
「ベイムックスの着ぐるみを着てブースに立ったらどうですか? 目立つこと間違いなしです」
「たしかにアリエンが、ただふざけているだけだと思われるぞ」あきれた上杉は視線もあわせずに突っ込んだが、美沙は思わずクスっと笑ってしまった。
「私、ベイムックス大好きなんです! 鉄筋さんとコラボしたパラパラ漫画も最高でした! あっ、鉄筋さんにうちの会社のパラパラ漫画を描いてもらうのはどうですか?」
「それすごいな!」無邪気に声を上げたのは、数分前、面倒くさそうに否定的な声を上げていた東條だ。純粋というのか、単純というのか。
「ま、まぁ無理だとおもうけど……」
「ぜったい無理とも言い切れないと思います。浅井さん、手紙かいてみたらどうですか?」
「えっ?」
「やってみないとわからないっすよ」
「えっ、い、いや」
「ぜったい無理って決める根拠はどこにあるんですか?」まるで坂井のような物言いに、美沙は苛立ちよりも可笑しみを感じてしまう。
「根拠って言われても」
「ないっすよね。やってみなくちゃわからない。浅井さんがマジなら手紙くらい書けばいいじゃないっすか」手紙くらいって……でも、
「わかった。書いてみるよ」そう答えるしかなかったが、答えてみると、美沙の中に昨今感じたことのないのわくわく感が芽生えた。そこで手を挙げたのはいまだまったく受注のない上杉だった。
「いま、こんなふざけたことやってる場合じゃないんじゃないかな? 草加はどういうつもりで、貴重な営業陣の時間を奪ってるんだ?」
「別に奪ってるわけじゃ」
「上期の予算達成しなくちゃならないから必死にみんながんばってんだよ。お前、ふざけすぎじゃないか」
「いや、いまの空気じゃダメだと思ったんで」
「空気、って何なんだ? 空気で何が変わるんだ?」
「空気で、気分が変わります。気分が変われば、営業対応も変わります。営業対応が変われば、業績も変わります」
「そんな精神論、マジで言ってるのか? 坂井にも言われるぞ。精神論は関係無い、って」
この場に坂井の後任、越野はいなかった。営業陣の心のどこかに、いまだ確実に居座る坂井の存在は、口にせずとも皆感じていた。
「坂井部長は……いまは部長じゃないけれど、空気が大事って言っていました」発言した美沙に一気に視線が集まる
「実のところ、坂井部長は空気を一番大切にしていたんです。例えば、“あたり前”の空気とか」
「あたり前の空気?」
「はい。なんでも自分があたり前って思ってたら、辛くないですよね? 毎朝みなさん9時には出社するじゃないですか。それはあたり前だから。だから、あたり前のレベルを上げるように、ってずっと言われていました。たとえば、1ヶ月に30件営業にまわるとして、それがあたり前になっていたら辛くないと思うんです。だから、そういう空気にするように、って、いつも坂井部長はおっしゃっていました」
「ちょっと洗脳っぽくないか?」村中が切り込む。
「それは違うと思います」美沙はぜったいの自信があるからこそ、語調も力強くなった。
「私は実感しました。皆さん、気づいていないかもしれませんが、社内の書類提出期限、いままでぜんぜん守られていなかったんです。それが、坂井部長に言われてアンケートとったり、提出箱を設置することによって、今では提出率100%ですよ。1年前は考えられませんでした。提出期限を守ることが、ここではあたり前ではありませんでした。それがようやく、あたり前になったんです。それは、あたり前の空気になったからなんです。空気って、わかりにくいものだと思っていたけれど、今でははっきりわかります。空気がすべてなんです」
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