電気サーカス 第59回

常時接続が普及しはじめた時代。『テキストサイト』をはじめた“僕”は、友人や高校を登校拒否中の真赤と共同生活を送っていたが、貯金が底をつき就職を決意。オフィス機器の修理会社で働くことになり、苦手な満員電車に揺られる日々を送る。

 いつも通り、満員電車に乗って、坂を上って下って、そして花園シャトーへ帰ってくるとすっかり疲弊しきっている。時計を見ると二十三時。ほぼ普段通りの定刻である。
 これから夕食を食べて、風呂にも入って、それから眠って、明日も七時に起きて、それだけでもう僕は精一杯なのだけれど、その上真赤を病院に連れて行かねばならないというのだから、陰々滅々たる気分である。
 帰ってくる間に多少でも症状が緩和されていないかと期待したものの、そう上手くはいかなかった。真赤の元々白い顔が今は青ざめている。万年床のなかにうずくまり、悪寒がすると訴えている。
 やはり、仮病や演技のたぐいではなさそうだ。本当に具合が悪いのだ。病院へ連れて行かなくてはならぬらしい。僕はもう、へとへとだって言うのに。このまま眠ってしまいたいのに。そもそも、具合が悪いといっても、話を聞くかぎり風邪のようじゃないか。我慢して寝ていたら治るんじゃないか? 真赤ちゃん少し頑張っておくれよ。未練がましくそう思ったが、さすがに本人にそうは言えない。
 そして僕は、119番に連絡をした。
 救急車が来るまでの間、痛がる腹をさすってやったり、昼からの状況を尋ねたりしながらも、僕は眠くてたまらない。機能を停止したがる体が、意識が、やたらと重い。目の前で同居人が苦しんでいるというのに、やはり僕は冷淡なのだろうか? 非常事態に対し、日常的な気分で接するのに慣れすぎてしまったのかもしれない。普段の彼女の自傷ならそれでもいいが、本当の体調不良にはそれではいけないのだと、頭ではわかっているのだけれど。
 —それにしたって、普段だったらこれほどに眠くはならないのに。眠りたい時には目が冴えて、起きていたい時に眠くなる。この自分の精神のままならなさといったら。
 夜の静けさのなか、病人は苦悶の声をあげている。熱を測ると三十八度。確かに高いが、風邪だとしたら特別な高熱とも思えない。何か他の病気なのか、それとも苦痛を大げさに訴えているのか。信用しない訳ではないけれど、医者でない僕には何の判断もつかない。睡魔を気取られぬよう声色を作りながら、安心させるべく話しかけていると、ようやく遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
 そしてやって来た救急隊員に事情を説明する。今回は、以前のような情けない理由ではなく、真っ当な体調不良であるから、気後れすることもなく病状を伝えることが出来た。すると、救急隊員達は担架で彼女の体を運び出す。
 ぽつりぽつりと並んだ水銀灯の明かりに羽虫がたかっている。この辺りは繁華街という訳でもなく、夜の闇は濃かった。救急車の白色は、その暗がりにぼんやりと浮かんでいる。
 隊員が後部ドアを開き、そこから彼女を乗せる。そして誰かに促されるまま、僕も乗り込んだ。全員が乗り込むと、救急車は走り出す。
 壁際には、メーターやモニターのついた機械が並んでいる。何に使うのかはわからないが、今は電源がオフになっている。年のいった隊員が、真赤の腕をとって何やらごそごそとやっている。血圧やら、体温やらを測っているのだろうか?
 前の席に座った救急隊員が、電話か、あるいは無線なのか知らないが、通信機器でもって誰かとやりとりをしている。当然ながら相手の声は聞こえないが、病院を探しているのだろう。どうも、あちこちで断られ、なかなか向かうべき病院が決まらないようだ。じゃあ、いまこの車はどこへ向かって走っているのだろう? 気づけば、窓の外は見知らぬ風景で、赤や黄色のネオンが灯っていた。サイレンはその煌めく街に鳴り響き、救急車は停車した車の間をすり抜けてゆく。交差点も信号もお構いなしだ。不思議な光景だな。なんだか、知らない世界に迷い込んでしまったみたいな気分だ。

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電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

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