第六章 消失点(19)

蒔野は洋子に誤解を受けてしまったことに未だ気付かず、ただ。彼女の反応がおかしいことを感じ始める......。


 後戻りするつもりはまったくなさそうで、その上でこちらの反応を気にしている様子だった。最初のメールを読んで以来、どこかでまだ、信じられないと拒んでいた現実感が、念押しするように、彼女に手渡された。

「事情が事情だけに、洋子さんならきっと理解してくれると信じてる」という一文に、何度となく目が行った。面と向かってそう言われたなら、きっと頷いただろう。それでも、「ちょっと、残酷な言い方ね。」と抗議したに違いなかった。

 蒔野は翌日、正午近くになっても洋子から連絡がないので、心配になって、再度短いメールを送った。が、昨夜の二通同様、返事はなかった。

 戻ってくるわけではないので、届いてはいるのだろう。壊れた携帯を朝一番で新調したが、データの恢復は難しいらしく、洋子の電話番号はわからないままだった。スカイプでも何度か連絡してみたが、やはり応答はない。

 祖父江は手術の結果、一命を取り止めたものの、意識はまだ戻っていなかった。

 奏は、何かあればすぐ連絡するからと、蒔野を帰宅させ、その後改めて、しばらくは大丈夫だと思うとメールで伝えてきた。

 蒔野は、洋子からの返信がないのは、最初、海外ローミングだとか何とか、携帯電話の問題なのではないかと考えていた。しかし、海外経験も豊富なジャーナリストの彼女が、一晩経って、まだその程度の問題を解決できないとは考え難かった。電話番号を尋ねても返信がない。そうしてようやく、彼は彼女が、気分を害しているのではということを、深刻に考え始めた。

 連絡も出来ずに、新宿で待たせていた間は気が気でなかったが、三谷の電話からのメールで事情を説明したあとは、彼はただ、祖父江の容態だけを心配していた。

 自分にとって、祖父江がいかに大切な存在であるかは洋子にも以前に話していた。その彼が、生死の境を彷徨っているという時に、約束通りに会えなかったからといって、あの洋子が激怒するなどということは、どうしても考えられなかった。

 蒔野は、洋子の自分に対する態度に、これまで知らなかった冷たさを感じた。

 自分に会いたくないのではないか? 長崎に同行しないとなると、彼女とは、今日と長崎から戻ったあとの二日しか会えないことになる。それならそれで、もっと早い時間に連絡をくれても良かったのではないか?

「もちろん、長崎に行っても落ち着かないとは思うけど、とにかく、会って相談しよう。今どこにいる?」

 洋子からは、しばらく返事が来なかったが、それは、彼女がいつも、真剣に物事を考える時に必要なあの時間の長さのように感じられた。

 やがて届いたメールに、蒔野は茫然とした。

「実はもう、長崎に来ています。」

「どうして? 飛行機は明日でしょう?」

「ごめんなさい。今はこれ以上続けられない。」

「どうして?」

 しかし、洋子からの連絡はそれきり絶えてしまった。

 長崎に移動してからも、洋子の心は揺れ続けていた。必ずしも、蒔野にもう会うまいと決心していたわけではなく、むしろ、いつ、どんなかたちで会うべきかを考えていた。 一日早く東京を発ったというのは、苦し紛れの嘘だった。今から会いたいという蒔野の言葉に、覚えず腕を引かれそうになったが、前夜に届いた二通のメールと同じ内容を告げられ、「洋子さんならきっと理解してくれると信じてる」などと言われて、冷静でいられる自信はなかった。彼の心情を思いやりたかったが、今はその悲しみに、とても耐えられそうになかった。

 蒔野の真意も、今一つ計りかねていた。気遣いのつもりであるとするなら、幾ら何でも月並みで、浅はかすぎるのではあるまいか。そういう人だっただろうか? それは、彼女にとっては侮辱的で、彼自身にとってはほとんど自己愛的でさえあった。

 昨日まで、自分は彼にとって特別な人間なのだと信じていられた洋子は、一通目のメールの内容と言うよりも、むしろその文体に深く傷ついていることにようやく気がついた。

 蒔野は、洋子の自分に対する態度に、これまで知らなかった冷たさを感じた。

 自分に会いたくないのではないか? 長崎に同行しないとなると、彼女とは、今日と長崎から戻ったあとの二日しか会えないことになる。それならそれで、もっと早い時間に連絡をくれても良かったのではないか?

「もちろん、長崎に行っても落ち着かないとは思うけど、とにかく、会って相談しよう。今どこにいる?」

 洋子からは、しばらく返事が来なかったが、それは、彼女がいつも、真剣に物事を考える時に必要なあの時間の長さのように感じられた。

 やがて届いたメールに、蒔野は茫然とした。

「実はもう、長崎に来ています。」

「どうして? 飛行機は明日でしょう?」

「ごめんなさい。今はこれ以上続けられない。」

「どうして?」

 しかし、洋子からの連絡はそれきり絶えてしまった。

 長崎に移動してからも、洋子の心は揺れ続けていた。必ずしも、蒔野にもう会うまいと決心していたわけではなく、むしろ、いつ、どんなかたちで会うべきかを考えていた。

 一日早く東京を発ったというのは、苦し紛れの嘘だった。今から会いたいという蒔野の言葉に、覚えず腕を引かれそうになったが、前夜に届いた二通のメールと同じ内容を告げられ、「洋子さんならきっと理解してくれると信じてる」などと言われて、冷静でいられる自信はなかった。彼の心情を思いやりたかったが、今はその悲しみに、とても耐えられそうになかった。

 蒔野の真意も、今一つ計りかねていた。気遣いのつもりであるとするなら、幾ら何でも月並みで、浅はかすぎるのではあるまいか。そういう人だっただろうか? それは、彼女にとっては侮辱的で、彼自身にとってはほとんど自己愛的でさえあった。

 昨日まで、自分は彼にとって特別な人間なのだと信じていられた洋子は、一通目のメールの内容と言うよりも、むしろその文体に深く傷ついていることにようやく気がついた。

(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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