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節子は文夫が買ってきたH全集の一冊に押された蔵書印が気になり、それを調べるために持ち帰る。そして、その印がかつて歴研で知り合った共産党員の佐野のものだったことを知る。佐野も節子より一学年上で、彼が二年生のときの1955年に地下活動に「潜る」ことになった。節子はもう4年間も佐野の消息を知らない。
ここで小説技法として注目したのは、佐野にまつわる話題は、小説のなかで二重括弧を付された『節子の記憶』という手記として語られていることだ。同様に、物語の人物の視点は、すべて文字で書かれた手記として構成される。
地下活動に「潜る」とは、「山村工作隊」に入ることを指している。山村工作隊とは、日本共産党が山村地域を拠点に共産党支持者を獲得するために1952年に形成した組織であった。背景には日本共産党がある。 ここで当時の日本共産党を知る上で重要なことは、知識人階級を中心に国民のなかにも共産党支持者が多く存在していたことである。
当時の読者には常識だった日本共産党を巡る戦後史
さらに少し当時の日本共産党に関連する歴史を補足したい。なお、この作品は普通に青春小説としても読めるものであり、その点ではこうした歴史の説明は必須とまでいえない。歴史の説明が難しいように思えるなら、次の小見出しまで読み飛ばしてもかまわない。
当時の世界の共産主義の主流は、ソ連のスターリンの意向のもとにある組織・コミンフォルム※に属していた。
※コミンフォルム:共産党・労働者党情報局(Communist Information Bureau)の略。第2次世界大戦直後のソ連圏におけるイデオロギー統一のための公式な国際共産主義の運動。
1950年、その機関誌『恒久平和と人民民主主義のために』に発表された論文『日本の情勢について』をめぐり、日本共産党内に、武力闘争を巡る意見の対立が起きた。ソ連本部と日本支部の齟齬と言ってもよい。日本共産党政治局はほどなく、異論とも取れる論文『“日本の情勢について”に関する所感』を発表し、日本の現状を説明した。この論文名からこの論の支持者は「所感派」と呼ばれた。
所感派による共産主義のあり方についての問題提起から、1951年2月、秘密裏ではあったが事実上の共産党全国大会である第四回全国協議会(四全協)が開催され、「当面の基本的闘争方針」として中国共産党を模した武装闘争路線が提示された。
続く10月の五全協で党方針として確認された。この方針が通称「51年綱領」と呼ばれるもので、翌年日本がサンフランシスコ条約で単独講和によって「独立」を果たすと、日本共産党は武装闘争を含めた運動を開始した。山村工作隊もその方針から形成された。
この年、いわゆる「血のメーデー事件」が起こる。日本共産党の指導とまでは言えないが、左派の武力闘争で国民の大きな関心を寄せたのが、5月1日のメーデーに皇居外苑で起きたデモ隊と警察部隊の争乱である。
さらに同年10月の第25回衆議院議員総選挙で、共産党は議席を失った。左派が関与したと見られる事件が続いたこともあり、日本共産党は国民からの反発を買ったためとされる。国民の意識から、左派の武力闘争方針が追い詰められた形になっていった。
この流れを受けて日本共産党は、1955年(昭和30年)7月の六全協で「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」と暴力党争の志向を自己批判し、1958年の党大会で、「51年綱領」を廃止した。
その後1961年には、現状認識を「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本である」とし、日本における共産主義の実現に向け、民主主義革命を経て社会主義革命に至るとする「二段階革命」を綱領とした。これの方針はその後も変化がない。
他方、日本共産党が「二段階革命」の提示したことにより、その否定した派として1960年代以降、単一の革命を志向する日本社会党や新左翼が活動していくことになる。 共産党を巡る以上の戦後史は、この小説が発表された当時には、主要な読者にとっては常識とも言えるものだった。
佐野の自省と自罰、そして自殺
節子の知り合いであり共産党員の学生でもあった佐野は、この歴史を体現している。日本共産党が六全協によって方針転換をして、武力闘争の廃止を宣言するのを、それまでの活動と革命への希望の挫折として受け止めたからである。そのようすは、Aとして記された知人の手記で語られる。まず、Aによる総括がある。
六全協による打撃は、
「ぼくも含めて、党と革命に自分の生活の目標を見出していた学生にとっては、殆ど致命的なものに思えました」
Aを含めて「潜った」共産党員は党方針転換から「茫然自失の状態」を経て、一部は世間に紛れ、他方はまた学生運動に戻った。それなりに生活を回復していった。しかし佐野はそうではなかったと、Aは言う。
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