つい数年前までは、PCを使って通信をする、というのは一部の好事家の密やかな愉しみだったような気がするが、今は猫も杓子もインターネットである。不気味な趣味だと、人に隠して行われていたものが、気がつけば脚光を浴びて、先進的で、ハイカラな装置へとかわってしまった。コンピューターやらネットやらにまつわるものを『IT』と、正体不明のアルファベットで呼んでもてはやすようになったのはいつからだろう?
関連企業も躍進し、いわゆるITバブルが到来しているそうだけれども、僕の周囲でもその余禄のようなものが、ないわけではない。具体的に言うと、PCを扱う、好条件のアルバイトがやたらと増えている。
たとえば、WindowsのOSをインストールした経験があるとか、自力でLANを組めるといった程度のスキルがあれば、あるいはなくとも、ただ日常的にPCに触れているというだけのさほど知識のないような人間でも、サポートセンターやら何やらで、立派に勤めを果たすことが出来るらしい。場合によっては、専門的なプログラマーよりも、条件が良い場合さえあると聞く。僕もにわかには信じられなかったが事実らしい。これが業界の黎明期ならではの、価値の混乱なのだろうか。
逆野は少し前からそういったアルバイトに従事している。先月までやっていた仕事は『サーバーの保守業務』というやたらと難しそうな名前のついた業務であるが、その実態は、一時間に数分PCを操作するだけで、あとは漫画を読んでいても、ゲームをやっていても、一晩眠りさえしなければ時給千六百円が発生するという恐るべき現場であった。僕がやっていたカラオケ屋でのアルバイトと、単純に時給を比較すると倍近い効率性がある。
そんなふざけた仕事を一体どこで見つけ出したのか、というと、どうも逆野のネット友達の紹介のようだ。ネット友達の一人が、IT関係の様々な仕事を扱う派遣会社の社長と親しくしており、彼らの周囲に多数存在する、PCとネットくらいしか取り柄のないような若者達に仕事を与えているらしい。
僕も以前からそういう話があるとは聞いていた。仕事のアテならばある、と真赤に言ったのもこれが念頭にあってのことであった。
本来ならばあまりやりたくはなかった。条件は確かに良いのだけれども、飽き性の僕はどちらかといえば動きのある仕事の方が好きで、じっと一人でモニターに向かうというのは、趣味ならばともかく、労働としては好ましくなかった。しかし、今は若干考え方が違う。条件が魅力的だというのは確かにそうだけれども、何より、求人誌を集めて、めぼしい仕事を探して、写真を貼った履歴書を準備する、という手間がないのがいい。僕は昔からそういう手続きが何よりも嫌いで、高校受験時には願書を自分で提出しろと言われたのが面倒くさく、結局どこにも届けを出さないで、公立学校の願書受付日のぎりぎりになって担任に呼び出されたという経緯がある。その点、この仕事は逆野に声をかけるだけでいい。
早速、その日の夜にバイトから帰って来たばかりのスーツ姿の逆野を捕まえて、何か仕事はないかと尋ねてみた。
「働きたいのなら、何かしらあると思うよ。どこだって人が足りないみたいで、社長はいつも誰かを紹介しろって言ってるし」
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