続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方

内村光良の怒り。【前編】

1985年にウッチャンナンチャンとしてデビューして以来、芸能界の第一線で活躍し続けるウッチャンこと内村光良さん。デビュー30周年の節目に「第三の全盛期」を迎えたウッチャンの知られざる姿を、多くの証言や資料を元に解き明かしていきます。
てれびのスキマ(戸部田誠)さんが、テレビっ子視点で描写するエンターテイナー評伝集第2弾『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 』より、内村光良編をお届けします。

誰かがやらねば

「生放送なら、僕はやりません!」

 内村光良は顔色を変えて激昂した。そのまま内村は蹴るようにして席を立ち、その場から去ってしまった。

 残された相方の南原清隆は内村のうしろ姿を呆然と眺めていた。場所は麻布十番のバー。新番組の立ち上げを前に、プロデューサーの佐藤義和と、ディレクターの吉田正樹や星野淳一郎らとメインの出演者であるウッチャンナンチャンとの企画の最終確認が行われていた。内村が新番組の開始を初めて聞かされたのは2月中旬。放送スタートの4月が目前に迫っており、まさに急遽決まったものだった。実は『とんねるずのみなさんのおかけです』(フジテレビ系)をやっていたとんねるずがドラマ出演のため、レギュラー放送を半年間休むという話になった。その空いた枠を埋めるために白羽の矢が立てられたのが、当時『夢で逢えたら』(フジテレビ系)などで人気が急上昇していたウッチャンナンチャンだったのだ。

 プロデューサーの佐藤にとっては「計算外」だったという。佐藤はいずれ『夢で逢えたら』をそのままゴールデンタイムに昇格させたいと考えていた(※1)。ディレクターの吉田や星野も同じだった。『夢で逢えたら』はウッチャンナンチャンのほか、ダウンタウン、清水ミチコ、野沢直子が共演したコント番組。当初、深夜2時台の関東ローカルの番組だったが、若い世代から圧倒的な支持を受け、わずか半年で夜11時台の全国ネットに進出した。だが、フジテレビがゴールデンの新番組に指名したのはウッチャンナンチャンだけだった。デビューわずか5年足らずの若手コンビに、期間限定ながらゴールデンタイムの冠番組。それはあまりに冒険だった。

「そもそも『夢逢え』がうまく行ってるのに、それを壊すことになりはしないか? 六人の絶妙なバランスで成り立っている番組なのに、ウッチャンナンチャンだけが先にゴールデンでレギュラーを持ったら、残りのメンバーはどう思うだろう?」(※2)

 吉田は真っ先にそんな心配が頭をよぎった。特にダウンタウンに悪い影響を及ぼすのではないかと。ダウンタウンとウッチャンナンチャンはいい仲間であると同時に強烈なライバル。芸歴が約2年しか変わらないほぼ同期といっていい間柄ではあるが、ダウンタウンのほうが先輩であり、関西での実績もあった。

「やだなあ~」と思いました、と南原は最初に新番組の立ち上げの話を聞いたときの心境を振り返っている。

「あの時、二四歳かな。お笑い初めて(原文ママ)四年満たないぐらいのコンビが、一時間番組で、とんねるずさんの後で、半年とはいえ、『こりゃちょっとどうなんだ!?』と。チャンスというより困ったなあという気持でしたね」(※3)

 一方、内村は前向きだったという。

「生放送でやりたい」という吉田たちの提案を聞くまでは……。

「私はやるんだったら作り込んだものをやりたかったんです。それがやることが決まりかけた頃に生放送だと言われて、話が違うと」(※3)

 温厚なイメージの強い内村だが、こと作品づくりに対する情熱とこだわりは人一倍強い。内村が激昂するのも当然だった。

 だが、そもそもが急な決定の中で時間がない現実は変わらない。ひとつひとつのコントを作り込むことができても、コントだけでは番組は成立しない。その合間に挟む企画的なコーナーを作る時間的な余裕がまったくなかった。そこで吉田たちが出した窮余の一策が「スタジオ収録した素材を観ながら、生放送でトークする」(※2)という形式。あくまでも、メインは作り込んだコント。生放送の部分ではない。それを丁寧に説明すると内村は態度を軟化させた。何よりも、誰かがやらねばいけない状況だった。

「やってみよう」

 こうして1990年4月、『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』(フジテレビ系)は誕生した。瞬く間にお茶の間の人気者になってゆく内村と南原。

 以降、内村はコントに人生を捧げたように各年代でコント番組を作り続けている。その原動力は一体何なのだろうか。

街の灯

 内村は坂道の街灯の下でピクリとも動けなくなった。

 情報誌『ぴあ』が発売される日、内村は南原ら同級生たちと一緒に早朝から、東横線の東白楽駅でまだかまだかと待ち構えていた。

「これください!」

 まだ梱包されたままの『ぴあ』を見つけた内村は店員に迫り、購入するとそのままひとりで街灯の下まで駆け寄った。

「おかしい……。俺の名前が載ってない!」

 そうして内村はその場で立ち尽くした。

 高校を卒業し入学した横浜放送映画専門学院(現在は日本映画大学)で、内村は南原や出川哲朗らを役者に自主映画を監督し、「ぴあフィルムフェスティバル」に応募した。自信はあった。だが、結果は一次選考で落選。

 内村が自信を持っていたのには理由があった。それは少年時代からずっと作り続けてきたという経験だった。

 1977年5月9日。

 日付もハッキリ覚えているという。内村の人生の転機と言っても過言ではない日だ。中学1年だった内村少年は『月曜ロードショー』(TBS系)でチャップリンの映画『街の灯』を観て号泣したのだ。

「母親と一緒に観てたから、ばれないようにしながら泣いて、映画に目覚めたんだ。俺の記念すべき日なんだ。絶対忘れられない」(※4)

 その後、友人と一緒に観に行った『ロッキー』や『卒業』、『がんばれ!ベアーズ』などに感動して、映画監督を志すようになった。

 2年生になると、内村は文化祭のクラス劇で、脚本・演出・主演を務め、チャップリンの『キッド』を元にした舞台を作り上げた。「舞台の端に弁士のようにナレーターを立たせて、俺(内村)がチャップリンの格好をしてパント・マイムで笑いをとる」(※4)というもので「大成功」だったという。

 翌年にはイタリア映画『自転車泥棒』がモチーフの舞台を上演した。

 小さいころから目立つのが好きな子どもだった。8ミリカメラで撮影するのが好きだった父の影響なのかもしれない。幼稚園のお遊戯会では王子様役を演じ、小学校のクラス会のレクリエーションでは人形劇をやった。タイトルはなぜか「豊臣秀吉物語」。秀吉の幼少期を描いた物語を読んで感銘を受け「豊臣秀吉」と「内村光良」の字面が似ていると感じたところから、主人公に付けた名前は「豊臣光良」。

「母親が人形を作ってくれて、オレが自分で脚本を書いたのか何なのか、人形劇をやったんですよ。途中で、人形劇の台の下からチラッと足を出すギャグを入れたりしながら。ちょうど加藤(茶)さんの“ちょっとだけよ”が全盛のころですね」(※5)

 高校で映画同好会に入ると、映画への熱はいよいよ高まっていった。夏と冬には実家の酒屋でバイトをしてお金を貯め、8ミリカメラや編集機材を買い揃えた。そして高1の最後にクラスメイト40人あまりを従え、自身が脚本・監督を務めた8ミリ映画『飛んでやる』を制作した。「空を飛びたいと願う男の子と病弱な女の子の愛のドラマ」(※6)だったという。空を飛ぼうと、ずっと走ってばかりの男の物語だ。これが内村光良の初監督作品である。本編は約20分で再上映会もやるほど好評だったという。言うまでもなく彼の映画熱はとどまることを知らない。

「このころから、もう映画なしでは自分の人生はあり得ないと思いこみはじめ、電車で二時間もかけて熊本市内まで出かけていく熱の入れようだった」(※6)

 翌年も映画製作は続行。反戦をテーマにした『戦争愛してます』を作ったが、不評。だが、悔しさをバネに内村はその翌年、第3作となる『男物語』を制作。内村主演による約30分のアクション巨編だった。内村は得意のジャッキー・チェンの真似で演じたのが大評判で、会場の視聴覚室は二日間にわたって満員になり、何度も繰り返し上映された。

「この3本のフィルムは今でも俺の宝物だよ。高1で買った機材と一緒にこっちに持ってきてる。大切な宝物なんだ」(※4)

※1 『映画秘宝』2010年2月号(洋泉社)
※2 吉田正樹:著『人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ』(キネマ旬報社)
※3 『Quick Japan』Vol.88(太田出版)
※4 『月刊カドカワ』1992年8月号(角川書店)
※5 R25編集部:編『R25 つきぬけた男たち』(リクルート)
※6 内村光良・南原清隆:著『未・知・子︱ウッチャンナンチャンの愛と謎の告白手記』(集英社)


『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか~』に続く、テレビを主戦場に戦うエンターテイナー評伝集の第2弾!

コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 (コア新書)
コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 (コア新書)

<目次>
序 章 内村光良「怒り。」(前編)
第一章 出川哲朗のリアルガチな成りあがり
第二章 笑福亭鶴瓶があこがれられない理由
第三章 タモリ少年期
第四章 中居正広とSMAPの時計
第五章 早見あかりとももクロの背中
第六章 博多華丸・大吉の“来世” 第七章 レイザーラモンの人生すごろく
第八章 キャイ~ンが泣いた日
終 章 内村光良「怒り。」(後編)

この連載について

続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方

てれびのスキマ(戸部田誠)

1985年にウッチャンナンチャンとしてデビューして以来、芸能界の第一線で活躍し続ける内村光良。デビュー30周年の節目に「第三の全盛期」を迎えたウッチャンの知られざる姿を、多くの証言や資料を元に解き明かしていきます。てれびのスキマ(戸部...もっと読む

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