第六章 消失点(18)

蒔野からのメールに戸惑う洋子。愛する人からの身勝手な連絡を受け、洋子が下す決断は......。

 彼という人間が、考えに考え抜いて、こんな身勝手なタイミングにまでずれ込んでしまったその決断を。相手を一時傷つけてでも、今どうしても伝えねばならないと思いきった結論を。初めて出会った時から、九カ月という時間を過ごしてきて、結局、自分が人生を共にすべきは、あなたではなかったという、その偽らざる実感を。……せめてそれが、彼のためだと信じられるのであれば、自分は彼を愛しているが故に、彼との愛を断念できるのではあるまいか。

 そんなことを考えられる自分に、洋子は或る意味、驚いた。それもまた、年齢的な変化なのだろうか? それとも元々、愛とは違った何かだったのだろうか?

 洋子は悲しかった。しかし、その底の見えない無闇な悲しみに身を委ねることが、今は恐かった。先ほどのフラッシュバックは、何か今までとは違って、思い出すというより、からだごと、あのイラクでの記憶の中に飲み込まれてしまったかのようだった。今いる場所の現実感を、短い時間とはいえ完全に喪失していた。あんなことが、今後も起きるのだろうか?

 これまで少しずつでも回復に向かっていると信じていたが、洋子は初めて、自分の体調がむしろ悪化しているのではないかという不安を抱いた。ここで踏み止まれなければ、「早くて一年」という完治までの時間は、終わりも見えないまま、際限なく先延ばしになりそうだった。

 傍らに蒔野の存在はなくとも、何とか独りで、日本にいる間は、持ちこたえなければならなかった。自分のために、とにかく、しっかりしないといけない。せめて長崎で、母に付き添っていてもらえるまでは。……

 今夜一晩は、もう何も考えてはならないと、洋子は自らに命じた。

 朝まで待てば、蒔野から、何か違ったメッセージが届くかもしれない。あまり考えられないことだったが、そうした期待は否定できなかった。それまでは、ただ横になって、この不安な場所から、いつもの自分へと流れ着くのを静かに待っているより他はなかった。

 洋子は、音楽に、自分に代わって時間を費やしてもらいたくて、iPodをスピーカーに繋いでアルバムを漁った。いつの間にか、蒔野のレコードばかりになっていた中から、彼とは無縁の曲を探して、アンナ・モッフォが歌うラフマニノフのヴォカリーズを再生した。去年、彼女が亡くなったのを機に、またしばらく、この美貌のソプラノ歌手のレコードをよく聴いていた。

 良い選択のような気がした。意味のある歌詞にはとても耐えられなかった。けれども、楽器だけでなく、今は人間の声に寄り添っていてほしかった。

 部屋の明かりは消したままで、彼女は、仰向けに横たわって、東京の西に向かって広がる夜景に顔を向けた。先ほどよりも、少し雨脚は弱まっている。バグダッドにこんな雨が降るはずがないと、彼女はまた自分に言い聞かせた。こんなに湿気があって、夜が明るいはずがなかった。

 美声のヴィブラートが、一本の蝋燭の明かりの揺らめきのように、彼女の存在を灯していた。

 段々と人心地がついてくるようだった。やや唐突に、「人間的な、あまりに人間的な」という言葉が脳裏を過ぎった。

 いつ聴いても、どうしてこんなに胸を打つ声なのかしら。崇高と言うには、確かに艶やかすぎるその声音。—もう、こんな時に自分を慰めてくれるのは、蒔野の音楽ではないのだと、洋子は思った。そうして、気を許すと、すぐにまた彼の記憶へと引き寄せられそうになる。

 自動再生にして、終わるとまた、最初から繰り返した。何度目という数さえ意味を失うほどに、ただ、それがいつまでも終わってほしくなかった。

 洋子の携帯電話が鳴ったのは、深夜、二時半を過ぎた頃だった。短いメールの着信音で、いつの間にか、ラフマニノフも消してしまって、眠りの浅瀬にただ打ち上げられたように横たわっていた。

 すぐに電話に手を伸ばすことが出来ず、バスルームに浴槽の湯を張りに行って、鏡の中の自分と向き合った。

 照明が眩しかった。彼のために、空港のトイレで化粧を直して以来の自分自身との再会だった。どんなに我慢しようとしても、自然と笑顔になってしまうのを、「ヘンな人と思われるわよ。」と心の中で囁きかけていたのが、遠い昔のことのような気がする。

 メールは、蒔野からだった。洋子は動悸を抑えながら、窓辺のソファに腰掛けて、それに目を通した。

「やっと、帰宅しました。  夜送ったメール、読んでくれた?

 返信がなかったから気になっていて。

 せっかく来てくれたのに、こんなことになってしまって、本当に申し訳ないです。

 事情が事情だけに、洋子さんならきっと理解してくれると信じてるんだけど、……ヒドい雨だし、こちらのトラブルで連絡も遅くなってしまって、心配しています。

 状況的には、前のメールで説明した通りです。厳しいけど、どうにか危機は脱したし、現実として受け容れて、出来る限りのことをしていくしかないです。自分自身の年齢も意識しました。ギターを弾き始めてから今日までのことを思い返しながら。

 洋子さんも、長旅で疲れたよね。今はホテル? 豪雨の中、本当にごめん。やっぱり今日(もう昨日だね)洋子さんに会えなかったのは、僕自身もすごく残念でした。

 ゆっくりして、少し落ち着いたら電話くれる?

 今後の相談は、またその時に。僕ももう、休みます。

             蒔野聡史」

 新宿駅で読んだ、あの思いつめたメールの口調とは、随分と違っていた。顔を合わせると冗談ばかり言っている蒔野の表情が思い浮かんだが、さすがに今は、その気楽さが調子っ外れに感じられた。彼女は、今度は静かにその文面を辿ることが出来たが、薬が効いているせいもあるのだろうと思った。

 どこかに行っていたのだろうか? 「どうにか危機は脱した」というのは、練習でもしていたのか。その高揚感が、思わず文面に表れたのか。—いずれにせよ、彼の中では、もう終わってしまったことなのだと、洋子はその穏やかな口調のメールを読んで、一通目よりも、却って寂しく感じた。

(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


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平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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