一故人

藤岡和賀夫—名プロデューサーが2020年東京五輪に遺した「教訓」

広告プロデューサーとして「ディスカバー・ジャパン」のビッグプロジェクトを成功させ、その後も「モーレツからビューティフルへ」のフレーズや、『さよなら、大衆。』などの著書執筆などで大活躍した藤岡和賀夫。彼の経験と歩みから、私たちが今学び取るべきヒントは何か? 新刊『タモリと戦後ニッポン』が絶好調の近藤正高さんが考えます。

「萩・津和野」が観光地としてセットになった理由

2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。この遺産を構成する資産のうち松下村塾をはじめ5つの資産が所在するのが山口県萩市だ。その萩は隣県・島根県の津和野町とセットで観光ツアーが組まれることが多い。私も20年あまり前の高校の修学旅行でやはり萩と津和野を巡っている。

もっとも、萩と津和野は隣り合っているとはいえ、双方の町の中心部を移動するにはバスで1時間半以上かかる。それがなぜセットとなったのか。そこには、1970年代初めに創刊された『アンアン』や『ノンノ』といった女性誌の影響があった。両誌は72年頃から日本各地を案内する旅行記事を毎号掲載するようになる。萩と津和野はそのなかで一緒にとりあげられたため、セットとして周知されるようになったのだ。両誌を抱えて各地を観光する若い女性たちは、「アンノン族」と呼ばれた。

そもそも萩は以前より観光地として広く知られていたが、小京都とも呼ばれる津和野は知る人ぞ知る町であった。それがにわかに注目を集めたのは、『アンアン』などで紹介されるのと前後して、日本テレビの旅番組『遠くへ行きたい』(1970年放送開始)でタレントの永六輔が当地を訪れレポートしたことも大きかったようだ。

さて、「アンノン族」が出現し、『遠くへ行きたい』のような番組が生まれた背景としては、1970年10月に始まった国鉄(現・JR)の「ディスカバー・ジャパン」という一大キャンペーンを見逃すわけにはいかない。

このキャンペーン開始の前月には、大阪での日本万国博覧会が半年間の会期を終え閉幕している。その入場者数は6422万人と、じつに当時の日本の人口の過半数が来場した計算となる。このうち2200万人が国鉄を利用したが、国鉄側はそれに対処するべく車両を増やすなど輸送力の強化をはかった。東海道新幹線がそれまでより4両増えて16両編成となったのもこのときである。

しかし、万博が終わったあと旅客の減少が予想されるなか、増強した輸送力を無駄にせずどう生かすかが懸案となった。そこで国鉄は、大手広告会社の電通に相談したのだった。このとき、電通にあってプロデューサーを務めたのが藤岡和賀夫(2015年7月13日没、87歳)である。

「自己発見のための旅」を提案

電通に相談を持ちかけたとき、国鉄側としてはあくまで《万博輸送でふくらんだ車両の万博後の使い道について何かいい知恵はありませんかねという、鉄道屋的なごく軽い気持での相談事》のつもりであったという(当時の国鉄営業課長の馬渡一真の証言)。

しかし藤岡和賀夫は、万博に続くイベントの企画、あるいは切符の割引や優遇制度などといった通常のプランニングをことごとく退ける。代わりに彼が打ち出したのは、人生における旅の意味を真正面から追求しようというコンセプトだった。同時に「ディスカバー・マイセルフ」なるタイトルも思いついた。

だが、当時、電通の社内でもディスカバーと聞いてすぐにそれが「発見」の意味だとわかる者は少なく、マイセルフの語もなじみが薄かった。そこで「ディスカバー・マイセルフ」を「ディスカバー・ジャパン」とあらため、さらに副題に「美しい日本と私」のフレーズを添え、自己の発見という意味を込めたのである。

旅を通じて自分を発見しようというコンセプトといい、タイトルに「ディスカバー・ジャパン」と横文字が採用されたことといい、すべては依頼した国鉄の予想をはるかに超えたものだった。しかもそれを全国規模のキャンペーンとして展開するのだという。藤岡のプレゼンテーションが終わったあと、彼に前出の馬渡営業課長が告げた「きょうはアラカルト(一品料理)を食べるつもりが、フルコースを頂戴しました」との言葉からは、国鉄側の驚きがうかがえる。

キャンペーンが開始されると、全国の国鉄の駅構内にポスターが掲示された。しかし、そこには観光ポスターなら必ず入るはずの地名の表記がどこにもなく、しかもわざとブレた写真を用い、日本国有鉄道の広告にもかかわらず「DISCOVER JAPAN」と英文ロゴが大きく入るという具合にすべてが型破りだった。

キャンペーンにあたって賛助企業を募ったのも広告史上画期的だった。この手法により、当時すでに赤字経営に陥っていた国鉄の出費は押さえられ、賛助企業は国鉄の用意したキャンペーン媒体に広告を出すことができた。なかでも最大の媒体となったのは、全国をまわった「ディスカバー・ジャパン号」(別名「日立ポンパ号」)という特別列車で、停車駅では家電メーカー・日立の製品のショウルームとなり、客が集められた。

テレビとの連動もはかられ、そこから生まれたのが前出の『遠くへ行きたい』だった。ディスカバー・ジャパンのポスターや同番組、さらには先述した『アンアン』『ノンノ』の旅行記事に誘われ、若い女性たちは気楽に旅に出るようになる。それは、日本社会に残っていた「女の一人旅は自殺旅」との通念を打ち破る、大きな変化であった。

結果的にディスカバー・ジャパンは、1976年まで足かけ7年におよぶ長寿キャンペーンとなった。続いて78年からはそのPart.2として国鉄は「いい日 旅立ち」キャンペーンを展開、このときも藤岡がプロデュースを手がけている。

官僚への道を選ばず広告業界へ

藤岡和賀夫はディスカバー・ジャパンを手がけたころ、「脱広告論」なる持論を盛んに説いていた。それまでの広告がモノを売るためのものだったのに対して、藤岡は広告をモノから切り離し、それ自体が独立した価値を持てないものかと考えたのである。そこで彼が重視したのは人の心だった。

時代はまさに高度経済成長の絶頂にあった。1969年には石油会社のテレビCMから「モーレツ」の語が流行し、朝から晩まで休みなく働くサラリーマンが「モーレツ社員」と呼ばれるなどした。しかし藤岡はそうした風潮に疑念を抱く。ここから彼は、人間性の回復を訴えるため「モーレツからビューティフルへ」のフレーズを発案し、これを富士ゼロックス社長(当時)の小林陽太郎に持ちかけ、同社でキャンペーンとして展開することになる(1970年)。そのテレビCMは、ミュージシャンの加藤和彦が銀座通りを「BEATIFUL」と書いた紙を掲げて歩くというもので、人々に強い印象を与えた。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

cna_arai なるほど、こういう背景があったのか……。 https://t.co/xQHoAhXVlY 2年弱前 replyretweetfavorite

donkou が掲載されたその日に、藤岡氏と「モーレツからビューティフルへ」のキャンペーンなどでタッグを組んだ小林陽太郎氏の訃報を聞くとは驚いた。謹んで哀悼の意を表します。 3年以上前 replyretweetfavorite