第六章 消失点(17)

突然の別れを告げられた洋子にPTSDの症状が襲う。蒔野から届いたメールの一行が頭から離れない洋子は......。

 今だけは何も起きないでほしかった。

 洋子は、気を確かに持たねばと、唇を固く結んで息を吐いた。少し汗ばんだ右手を握って、親指で人差し指を擦っていたが、急にそれを止めると、カウンターの上の左腕に手を置いて、俯き加減に時計を軽く打ち続けた。

「お待たせしました、担当の者がお部屋までご案内します。」

 巨大なシャンデリアが下がっている吹き抜けのロビーには、様々な国の言葉が溢れていた。つい今し方、銃撃戦があったばかりの現場で、人々の絶望的な悲嘆を取材し、ようやくムルジャーナ・ホテルへと戻ってきた時の記憶が蘇った。

 あの時とは違う。同じのはずがないと、彼女は自分に言い聞かせた。ここは決して、四方八方のどこから銃弾が飛んでくるやも知れないバグダッドなどではない。自分は、東京にいる。安全な東京に。自分はただ、「設定値が非常に過敏なセンサー」のように、何でもないことのために不安になっているだけなのだ。

 ここでは何も警戒する必要はない。自分は確かに、生きて無事にバグダッドから帰ってきたのだから。……

 あの時には、自室に戻ってドアにしっかり鍵を掛け、シャワーで砂埃を落とし、寛いだ格好で、蒔野のバッハの演奏に静かに身を委ねることが、緊張から解放されるための何よりの方法だった。

 PTSDの発作はパリからのフライト中も心配だったが、東京に辿り着きさえすれば、自分は救われるのではないかと夢見ていた。思いがけない感情の暴発で、この愛を台なしにしてしまうことを恐れながら、それでも、彼の愛の安らぎの裡に慰安を求めていた。

 しかし今、彼女を突発的な恐慌の危機に陥れているのは、まさしくその彼から届いた一通のメールだった。—『あなたのことがずっと好きでしたが、この先もそうである自信を持てません。……』という一文が、また脳裏を過ぎった。

 ベルボーイに案内されて一緒にエレヴェーターに乗り、二十二階の部屋へと向かいながら、洋子は先ほど頭上にあったシャンデリア越しにロビーを見下ろした。地上から遠ざかってゆく。ガラス張りのエレヴェーターは、やがて暗転し、雨の降りしきる夜景に包まれた。

 目の前が光った。間を置かずに、巨木が真っ二つに引き裂かれるような音がして、何か悲劇的なまでに痛烈な落雷の地響きが伝わってきた。衝撃が、突然、洋子の乗っているエレヴェーターを停止させた。洋子は戦慄した。一人閉じ込められてしまったエレヴェーターの中で、逃げ惑う各階の人々の声が聞こえてくる。つい今し方まで彼女が話をしていた人々は、今は血塗れの遺体となって、ロビーの大理石の床に倒れている。あの大きなシャンデリアのクリスタルが、辺り一面に散らばって。—彼女自身が、そうなるはずだった。あと、たった一つ質問をしていたなら。「イラクに平和は訪れるのでしょうか?」という、その質問をしていたなら。そして、エレヴェーターに乗り込んだ彼女を見つめる、あの自爆テロ犯の目。……

 洋子は、自分がどうやって部屋まで辿り着いたのか、覚えていなかった。貧血のように、酷く気分が悪くなって、恐らく倒れたか、蹲るかしたのだった。

 ベルボーイが呼んだ医師の診察を受け、薬を飲むと、あとは一人にしてほしいと礼を言った。

 十時半を過ぎたところだった。パリはと計算して、まだ午後三時半だった。疲労の処置に困る時間だった。蒔野がパリに来た時にも、最初に時差ボケの話をした。パリから東京に向かう時の方が、その逆よりも重い、と。会えば、今度もきっと、そこから会話が始まっていたのではなかったか。

 気分が落ち着いたら、蒔野に連絡を取りたかった。しかし、何を話すべきだろうか? 彼の突然の心変わりの説明は、ほとんどあのメールに尽きていた。蒔野の音楽家としての不調については是永から聞かされていた通りで、しかも洋子は、自分の存在が彼の活動に良い影響を与えているのかどうかを絶えず気に掛けてきた。

 普段の蒔野のメールの文章ではなかった。しかし、自分は一体、普段の彼の何を知っているのだろうか? むしろようやく、彼は普段の自分のままで、これまで隠していた本心を打ち明けているのではあるまいか?

「自分を偽り、あなたを騙してしまう」という言葉が、何よりも深く洋子を傷つけていた。

 過去は変えられる、と彼は言った。変わってしまうとも。—あんなに楽しそうに喋っていたあの笑顔も、無理に演じたものだったのか?

 そんなはずはないと、彼女はただちに打ち消した。けれども、彼女が今し方目を通したたった一通のメールは、既にして、彼との思い出の一瞬一瞬に、暗い陰りを染み渡らせつつあった。

 なぜ今になってと、彼を責める気持ちがあった。しかし、今だからこそだった。つまり、結婚というこれまで曖昧に同意されていた約束を、確定せねばならない機会だったからこそ、彼はギリギリまで逡巡し、結局、違う運命の選択をしようとしているのだった。

 パリを発つ前に告げられていたなら、それで納得して、自分は日本に来なかっただろうか?—やはり、来ていただろう。せめてもう一度、彼と会って話がしたいと。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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