言い切らない誠実さ、切り捨てるキャッチーさ
「など」「といった」「ほか」「ら」......。これら、記述したもののほかにもなんらかの存在があることを示す言葉を、唐木ゼミでは「濁し言葉」と呼んでいます。
たとえば並列の情報が全部で8つあるとき、A、B、C、D、E、F、G、Hとすべて書き連ねるのは、文字数の都合で難しいことが多いでしょう。そこで「AやBなどが」と濁して記述すると、一定のスマートさを得ながらも全体を述べられた気がします。ほかの要素をにおわせることで、事実に対してある種の誠実さが保たれるわけですね。
しかし読者としては、なんだか輪郭がモヤモヤしてきて、あいまいな印象を受けます。たとえば「AやBらがCやDなどでE、Fといった楽曲を披露する」なんて文章があったらどうでしょうか。ひとつも言い切っていなくて、なんなんだ! という気持ちにならないでしょうか。
一方で「AやBが」と誠実さを切り捨てたときに得られる強さ、キャッチーさがあります。このことを、ゼミでは「誠実さとキャッチーさの相克」と呼んでいます。
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