一番強い者は、自分の弱さを忘れない者(ヨーロッパのことわざ)
どれも甲乙つけがたい
そもそも「生命誌」とは何だろう? 自分の学問にこの名をつけた中村桂子によれば、それは、「生命の歴史物語を読みとること」。でもそれはただ人間が他の生きものの歴史を読み解くというだけでなく、生きもの自体がその歴史を読み解きながら生きている、という意味でもあるという。だから、「生きものたちをよく見つめることは、彼らが読み解いてきた物語を聞かせてもらっていること」でもある、と中村はあるインタビューの中で言っている。
科学者として、微生物から人間までのあらゆる生きものを見てきた彼女が思うのは、「どの生きものも巧みに生きているということ」だそうだ。自分が生きるのも巧みなら、次へと世代を続けていくことにも巧みだ、と。
その能力が発揮される分野や方法は生きものそれぞれで異なりますが、生き続ける能力として見れば、どれも甲乙つけ難いとしか言えません。
甲乙つけがたい、つまり、生存ということにかけて、生物に優劣はつけられないというのだ。それは単に、絵巻の上端に並ぶ現生の生きものたちの間だけでないだろう。天と要を結ぶ線上に並ぶ、現代のクラゲと『イシュマエル』のたとえ話に出てくる5億年前のクラゲの間にも、優劣はつけられない、ということだ。
さて、ぼくたちは「進化」という言葉について考えてきた。それは、これまで多くの人がイメージしてきたような、「下等→高等」、「弱い→強い」「単純→複雑」といった一方向への変化のことではないということがわかってもらえたと思う。ぼくたちの中にもあったかもしれないそういうイメージに、別れを告げる時がきたようだ。
連載の冒頭で触れたように、そもそも、「進化」という考えはチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859)からやってきたものだ。進化とは、要するに、生物が常に環境に適応するように変化し、種が枝分かれするようにして多様な種を生み出すしくみ。この過程を説明するのが「自然選択(ナチュラル・セレクション、自然淘汰とも訳される)」という言葉で、それは自然が、生物に起こる突然変異を選別することで、一定の方向性を与えるという説だ。そして、人間もまた、他のすべての生きものと同様、自然選択によって現れ、環境に適応しながら変化してきたというのだ。
ここでもう一度確認しておきたいのは、進化という言葉に、もともと「前進する」、「上昇する」、「改善する」とかの意味は含まれていない、ということ。つまり、進化とは、「より劣ったもの」から「より優れたもの」へ、「より低い価値」から、「より高い価値」へ、といった初めから定まった方向性を示す言葉ではないのだ。
ダーウィンの理論が当時いかに大きな衝撃を西洋社会にもたらしたかを想像することは難しい。それは、旧約聖書の昔から、神が人間に与えたものと信じられてきた特権的な地位を、否定するものだったのだから。
今では進化論は常識化したように見える。「人間はサルから進化した」と聞いてビックリする人はほとんどいないだろう(少なくとも日本には。外国には宗教と相容れないという理由で、これを否定する人が少なからずいるのだが)。
ただ、その一方で、常識となった「進化論」なるものは、いつの間にか、ねじ曲げられ、一種の神話となって、人々はその下に「とらわれ」るようになってしまった。あのゴリラのイシュマエルが指摘したのは、まさにそのことだった。つまり、進化の名のもとに、ぼくたち人間こそが世界の中心であり、生命史の最終目標だという、“人間中心主義”におちいってしまった。
そこでは相変わらず、進化とはより劣ったものからより優れたものへと変化するプロセスであり、「前進」「上昇」「改良」といった一方向に向う道筋だと信じられている。
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