第六章 消失点(16)

三谷は後悔に駆られるがもう送ってしまったメールをどうすることはできなかった。彼女は大きな水たまりに気づかないまま、手を滑らせ......。

 当然、不審に思って電話かメールで連絡を取ろうとするだろう。すぐにバレてしまう! どうしてこんな馬鹿なことをしてしまったのだろう? 三谷は後悔に駆られて、たった今送信したばかりのメールを取り戻そうとしたが、その手は決して届かなかった。

 絶望的なもどかしさに、彼女は血の気を失った。

 蒔野は絶対に、自分を許さないだろう。激怒し、軽蔑し、自分をこそ彼の世界から消し去ってしまおうとするだろう! ああ、どうすればいいのだろう? また新宿まで戻って、洋子に会い、すべてを打ち明けて謝罪し、蒔野にだけは言わないでほしいと頼むべきか。彼女なら、優しく理解し、赦してくれるのではあるまいか。—あり得なかった。このままこの携帯電話を持って、どこかに行ってしまおうか。

 けれども、蒔野は他でもなく自分を待っていた。今は世界中の誰よりも、自分の到着を待っているのだった。洋子も、あれを読めば、もう連絡などしてこないのではないだろうか?

 雨は一向に止む気配がなく、赤羽橋で降りて、傘を開いて歩き出すと、頭上でぼとぼとと太鼓の撥で叩いているような音がしていた。

 三谷はハッとして、蒔野の携帯を取り出すと、送信履歴から先ほどのメールを削除した。画面を見ながら歩いていたせいで、彼女は大きな水たまりに気づかなかった。

 足を踏み出すと、くるぶしまで浸かってしまい、慌てて後退った。その刹那—それは、誓ってわざとではなかった!—彼女は手を滑らせて、蒔野の携帯を、その水の中に落としてしまった。

「あっ!」

 急いでしゃがんだが、すぐには拾い上げず、少し躊躇ってから、その濁った水に手を突っ込んだ。画面は闇に閉ざされている。雫を拭って、どのボタンを押してみても、何も表示されなかった。

     *

 蒔野の元に携帯電話が届いた時には、既に九時半を回っていた。祖父江の手術は、まだ続いていた。

 三谷は酷く濡れていて、疲れ果てたような様子だった。そして、蒔野の前に立つと、泣き出してしまった。
「どうしたの?」

 蒔野は礼を言いながら、驚いて理由を尋ねた。三谷はただ、携帯電話を水たまりに落として壊してしまったとだけ伝えた。

 蒔野は、手渡された電話の電源ボタンを押し、それから手当たり次第に色んなボタンを押してみたが、何の反応もなかった。

「……すみませんでした。」

 三谷は震えていた。困ったなとは思ったが、蒔野は怒ることは出来なかった。むしろ、自分はこういう失敗の時に、彼女をここまで怯えさせるほど、このところ、酷い態度だったのだろうかと気が咎めた。

「しょうがないよ。元々なくなってたものだし、出てきただけでも。……ありがとう。」

 蒔野は、三谷の様子に、この時、異変を感じていないわけではなかった。しかし、この雨の中、仕事で携帯電話なんかを取りに行かされれば、当然だろうと思っていた。或いは、雨に濡れて、風邪でも引きかけているのかもしれない。

 いずれにせよ、問題は洋子と連絡を取る方法だった。彼女こそ、長旅でくたびれ果てているのに、今頃どうしているだろう? 機転の利く人なので、駅でじっとしているということはない気がしたが。……気が気でなかったが、祖父江の容態がいつどうなるかわからなかったので、一旦、自宅に戻ってパソコンから連絡を取るわけにもいかなかった。

 蒔野はふと、三谷が初対面の時に、洋子と名刺を交換していたのを思い出して、 「小峰洋子さんの連絡先、知らない?」

 と尋ねた。

 三谷は、目を瞠った。知らないと言うべきだったが、咄嗟のことに慌てて、

「メールアドレスなら、多分、わかります。」

 と言ってしまった。

「あ、ほんと? よかった。なんだ、どうしてもっと早く気がつかなかったのか。……ごめん、ちょっと至急、連絡したいことがあるから、三谷さんのケータイからメールを送ってもらってもいい?」

「……はい、いいですよ。」

 三谷は、拒むことも出来ず、不安に駆られながら洋子を宛先にしてメールの準備をした。

「今日、会う約束をしてたんだけど、……助かったよ、連絡が取れて。」

 そう言いながら、蒔野は祖父江が倒れた事情を説明し、この場を離れられないので、今日はホテルに泊まってもらうか、ここまで来てもらえるなら部屋の鍵を渡すと書いた。三谷にまた使いに行ってもらうというのは、すまなくて頼めなかった。

 体が空き次第、連絡をするし、もし遅い時間まで起きているなら、帰りに直行するとも伝えた。何度も謝罪し、最後に忘れずに署名をすると、送信ボタンを勝手に押すのは、なんとなく躊躇われて、

「いい、これ、送ってもらっても?」

 と三谷に渡した。

 三谷は、見るつもりもなく目にしたその文面に、胸が張り裂けそうになった。

 彼女は、蒔野から見えないようにして、メールを送信するふりをしながら、それをそのまま削除した。そして、顔を上げると、強ばった笑みで頷いた。

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平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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