日本建築論

宮殿と皇居をめぐって:第9章(1)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。


○京都迎賓館のハイテク和風

 外国の首相など、国賓級の人物に対して、晩餐会や宿泊を通じてもてなす施設が迎賓館である。現在、迎賓館赤坂離宮と京都迎賓館がそれにあたる。いわば迎賓館は国家の顔となる建築だ。

 1909年に東宮御所(後の赤坂離宮)としてつくられた前者は、欧米と対等にはりあえる日本を演出すべく、威風堂々としたネオ・バロック様式であり、戦後に改修されて迎賓館となった。一方、2005年に新しく完成した京都迎賓館は、現代における日本建築をめざした。内閣府のホームページによれば、「京都迎賓館は日本の歴史、文化を象徴する都市・京都で、海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的」にしている。つまり、和風の建築だ。コンペにより選ばれた日建設計が手がけている。高層ビルから東京スカイツリーや新国立競技場のザハ・ハディド案まで、様々なタイプのデザインに対応できる、日本を代表する大手組織系建築設計事務所だ。

 デザインの特徴は、全体を一層におさえていること。限られた敷地に要求された用途を入れていくと二階以上になりやすいが、それを避け、サービスの機能をほとんど地下におさめたからだ。いわばディズニーランドと同じ手法である。もっとも、歴史を振り返ったとき城郭や人が居住しない塔などの特殊構築物をのぞいて、高層がほとんど存在しなかった日本建築を、二層以上で構成すると、縦横のプロポーションの処理が難しくなる。そのため、むくり屋根と軒の水平線の美しさを強調するためにも、こうした構成を選んだと思われる。

 京都迎賓館では、日本の空間らしく、中庭に面した雁行する廊下からは開放的な眺めを得られるのだが、すべてにはめ殺しの大きな窓ガラスが入り、物理的には遮断されている。その代わりに、スピーカーを通じて、外の水のせせらぎなど、自然を感じられる音を室内で流す。施設の性格上、最高度のセキュリティが要求されるからだ。ゆえに、サリン事件以降、外部から投げ込まれる毒ガス攻撃も想定し、空気のコントロールに細心の注意を払う設備を備える。敷地の隅にある築山も土塁の機能をはたすらしい。こうした安全性もテーマパーク的というべきか。しかし、大衆向けの娯楽施設がキッチュなデザインに陥りがちなのに対し、京都迎賓館は洗練されている。むろん、名人の競演による和のしつらえが大きな役割をはたしている。つまり、最高度の現代的なセキュリティを維持しながら、武骨な要塞ではなく、人間国宝を総動員した伝統的な造作が融合した空間なのだ。

 が、それだけではない。ニッケル・ステンレス複合板で葺いた屋根、鋼管を削った柱など、現代のテクノロジーが繊細な日本建築の長所を引き出している。後ろ向きの和風ではない。22mの長押など、極細のプロポーションを実現した「現代日本」の建築である。

 普通の業務ではできないこと、国家プロジェクトだからこそ可能なことに挑戦したユニークな建築である。もっとも、この建物の評価をめぐっては、日本建築学会賞(作品)に複数回応募したものの、結局、落とされたことが話題になった。意匠系の審査員が、コンサバティブな和風の外観に難色を示したからだと聞くが、日本的なものがベタに表現されていると見なされたのだろう。筆者は日本建築大賞の審査でここを訪れ、見学したが、和風でありながら、過去になかったさらに細長いプロポーションを実現したことや、ハイテクと和風の乖離と同居こそが、この建物の面白さだと考えている。


○昭和の宮殿再建計画

 1945年5月25日の夜、東京の空襲は霞が関の官庁街を焼き払い、その火が皇居にも届き、和洋折衷の明治宮殿が灰燼に帰した。これは木造平屋の建物であり、燃えなかったのは、コンクリート造の静養室と食事関係の大膳の建物のみだった。戦後しばらくして宮殿を再建すべきという世論が高まり、その位置をどこにすべきかがメディアの話題になる。

 当時は皇居を市民に開放せよ、といった声も出ていた。現在は、なんとなくこうした発言が憚られる雰囲気が漂う。例えば、建築史家の藤森照信は、皇居前広場では「何々をしてはいけないという打ち消しのマイナスガスが立ち込めている」と述べている。日本の都市を破壊する怪獣ゴジラも、海から上陸し、障害物がないのに、皇居を迂回して新宿に向かった。毎年大量に生産される建築学生の卒業設計をみても、渋谷や新宿への提案は定番だが、皇居に関するプロジェクトは皆無である。いや、禁忌という意識すらないかもしれない。学生にとっては、そもそも存在しない場所という可能性もあるだろう。

 が、国民を縛ってきた戦時下のイデオロギーから解放されて間もないこともあり、戦後すぐは状況が違っていた。1957年に丹下健三は、「僕はあれを文化センターにしたいんだ。公園あり、美術館あり、図書館ありで、今の自然の武蔵野情緒も生かしながら、国民のものにね」と発言している(丹下健三+藤森照信『丹下健三』新建築社、2002年)。そして皇居を含む山手線のエリアをまるごと大改造し、排気ガスが多くて環境が悪いから、皇居は引越してもらうアイデアを披露した。現在、有名な建築家がこうした皇居開放の発言をすることは考えにくいだろう。

 また1958年に丹下は、こうも述べている。「まず宮城を解放していただきたい。宮城のあの環境はなんとか残すこと、そうして宮城の周囲をもっと楽しいものにする。・・・ショッピングセンターもあれば、ビジネスセンターもあるということにして、一応宮城は原形通り残す。けれどもあそこを横断できるようにしたい」、と。宮城を文化の中心とし、都民のレクリエーションの場とし、まわりに高層アパートを建てていく、というのだ。また皇居前広場は、メーデーに使われるなど、民主主義の運動の場として機能している。すなわち、皇居をめぐる想像力は自由だった。

 ともあれ、新宮殿については、東京の過密化や環境悪化を受けて、京都や富士山麓、あるいは地下を候補地にあげる意見も登場したが、国会議事堂をはじめてとして政府の関係機関が集中している東京にとどまることになった。なお、丹下の「東京計画1960」(1961年)は、SF的なメガストラクチャーによる大規模な都市改造を提案しながら、皇居に手をつけていない。そして1960年代の後半に前川国男が東京海上ビルを設計したときは、皇居を見下ろすということで批判され、結局、高さが削られている。


○新宮殿の建築をどうするか

 やがて国民から宮殿再建の寄附運動が起こり、それが変に強制化などの弊害を伴わないよう、政府は国費で宮殿造営を行なうという談話を発表する。国家的なプロジェクトは、7回の皇居造営審議会を開催し、様式に関して以下の答申を総理大臣に提出した。「日本宮殿の伝統を重んじ、深い軒の出をもつ、かわらぶきの勾配屋根をかけた鉄骨鉄筋コンクリート造の現代建築」とすること。同じく戦災で焼失した明治神宮の再建(1959)では、造営委員会において東大教授の岸田日出刀がたとえ可燃であっても、神社は木造で復興すべきと主張して、そうなったのに対し、昭和宮殿は不燃の構造物に決定された(五十嵐太郎『新編 新宗教と巨大建築』ちくま学芸文庫)。

 彼は、最初の明治神宮(1920)のときに、神社木造論を説いた伊東忠太の志しを継いで、「ホンモノの神社建築、すなわち木造でなければならない」と述べている。伊東は、中国から導入された仏教寺院と違い、日本固有の建築である神社は、時代とともに変化したり、進化すべきではないと論じていた。なお、伊勢神宮の式年遷宮に際して、木材の入手が困難になるため、1904年にこれからは檜ではなく、文明開化にふさわしいコンクリート造にすることが明治天皇に提案されている。これに対して、天皇は「祖宗建国の姿」を守りたいと述べたという(ジョン・ブリーン『神都物語』吉川弘文館、2015年)。

 答申における様式のくだりについて、臨時造営局長の高尾亮一は、「後にさんざん私を苦しめることになる」と回想している(『宮殿をつくる』求龍堂、1980年)。そしてこう記した。「一見なんでもない作文だが、「日本の伝統」とは何か。代表として京都御所と明治の宮殿とを取り上げてみても、この二つは互いにまったく異質のものだ。さらにこれと「鉄骨鉄筋コンクリート造の現代建築」ということとはどう結びつくのか」。

 そこで彼は宮殿にもともと固定した様式はないから、「現代建築」という言葉だけにすがることにしたという。すなわち、宮殿が建築された時代を集約的に表現すること。ただし、「宮殿は一国を表徴するに足るものでありたい。それ故現代の日本が持っている最高の技術的到達と芸術的水準とを示すものでなければならぬ」。日本的なるもののアポリアが意識されていた。

 もっとも、日本の宮殿だから国籍不明のものは良くない。『週刊読売臨時増刊 特集 新宮殿』でも、「ヨーロッパのコピーである赤坂離宮は、日本の伝統に根ざしたものではない」と指摘されていた。ゆえに、彼はこう考えた。「日本人だけがつくり得る宮殿を建てるならば、それは逆に世界の文化に貢献することになるにちがいない」。結果的に、これは平成の京都迎賓館と近い態度だろう。

 昭和宮殿は、コンクリートの陸屋根の上に勾配屋根をかけたり、柱を銅板で被覆するなど、現代的な考え方で素材を用いたが、外観はコンサバティブな和風である。プログラムの面では、明治宮殿と違い、居住部分を含まない。国家的な行事の公の場である。建築史家の太田博太郎は、以下のように論じている(「日本の宮殿にみる様式と伝統」『週刊読売臨時増刊 特集 新宮殿』)。歴代宮殿の配置計画は、「大陸の影響をうけていたにもかかわらず、個々の建物の様式については日本固有の様式が、長く近世まで伝わったことは、住宅の伝統というものがいかに根強いかを知らせるとともに、日本の文化が外来文化の摂取にあたり、外来様式の選択ということを通して、単なる模倣に終わったものではないことを物語るものといえよう。この伝統は明治宮殿にも引き継がれた。・・・このような日本の宮殿の様式的伝統は、今回の昭和新宮殿にも、そのままうけつがれている」。

 なお、昭和天皇は工事現場をよく視察していたが、公的な場となる宮殿の計画にまったく口出ししなかったという。一方、私的な生活の場となる吹上御所(1961)については、「面積を最小限度にとどめよ、贅沢がましいことは一切避けよ」と繰り返し要望をだした(『宮殿をつくる』)。これは和風の建築ではなく、鉄筋コンクリート造の二階建てのモダニズムのデザインである。


○宮殿問題と建築家の職能

 当初、宮殿のプロジェクトは、建設省の担当も検討されたが、特殊な施設であることから、宮内庁が担当することになった。審議会の答申を経て、有識者の意見を求めることになり、前述した岸田、谷口吉郎、丹下健三、堀口捨巳、前川国男、村野藤吾、吉田五十八、吉村順三を含む10名の建築家が選ばれた。そして1960年に吉村は基本設計が委嘱され、臨時皇居造営部が実施設計を行なった。国会で長いと批判されたように、設計に5年、施工に4年をかけて、1968年11月に完成する。深い軒の出をもつ勾配屋根をかけた鉄骨鉄筋コンクリート造の地上二階、地下一階の建築であり、中庭、東庭、南庭、地下駐車場などが付随していた。工事は高尾の強い意向により、あえて会計法の定める競争入札をかけず、工事実績から5位までを選び、大林組、鹿島建設、清水建設、竹中工務店、大成建設の大手5社が担当した。内装には、東山魁夷が壁画、多田美波が照明など、美術家も参加している。予算は当初の90億円だったが、物価の高騰や人件費の値上がりもあって、最終的に建設費は130数億円に膨らんだ。当時、ジェット機が1台30億円である。

 1964年6月に吉村が設計の役職を辞任する新宮殿問題が起きる。これはジャーナリズムで騒がれたが、高尾は彼らがすぐ善玉悪玉を決めたがることに苦言を呈していた。辞任の理由は、宮内庁との意見の相違により、吉村が設計の責任をまっとうできないからである。例えば、天井の仕上げ、柱梁の外装、鉄骨の発注をめぐる意見の相違、そして長尺で幅広の木材を求めたが、経済的な理由から拒否されたことなどが原因とされた(「新宮殿問題を探る」『新建築』1965年9月号)。ゆえに、吉村は「宮内庁当局によって建築家としての芸術家的良心を無視された」という。一方、高尾は、予算経理や現場監理について吉村が独裁的な立場を求めたのに対し、「国の建造物について、国民の歳出経理の責任上、この要求に同意することはできません」と述べる。また吉村は格調高いシンメトリーの図面を描いたが、宮内庁で改変し、少し崩したらしい(『週刊読売臨時増刊 特集 新宮殿』)。

 つまり、基本設計と実施設計をめぐる認識の違いである(石崎順一「30年目の新宮殿問題」『現代建築の軌跡』)。吉村はヨーロッパ的なアーキテクト像をイメージし、調査研究、基本設計、実施設計、工事監理と、一貫した作業のすべてに責任をもち、総指揮をとろうとした。一方、宮内庁は国家の建物だから、財政を適切に処理することが必要と考えた。ゆえに、設計契約の内容や条件が事前にきちんとつめられていなかったのかもしれない。形式的な官僚主義であり、プロセスもオープンでない。新宮殿の設計を通じて、日本における建築家の立場の曖昧さが浮かびあがった。

 浜口隆一は、新宮殿問題から、建築家の職能の問題を指摘し、以下のような提言を出している(『新建築』1965年9月号)。国家プロジェクトはオープンコンペであるべきこと。建主の国と建築家をとりもつマネージャー的な役割が必要であること。建築家協会など、建築家側からの提案をもっと積極的にアピールすべきことなどを指摘した。現在進行形の新国立競技場のプロジェクトでも、建築家が業者扱いされる日本と、イギリスに拠点を置くザハ・ハディドのあいだに大きな齟齬が生じている。残念ながら、新宮殿問題の構図は、半世紀後のいまも変わっていない。



※次回掲載は10月2日です。


筑摩書房の読み物サイト


毎週金曜日更新!!

http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/

●好評連載中!
いしわたり淳治「短短小説」 大澤真幸「資本主義の〈その先〉に」 國分功一郎×山崎亮「僕らの社会主義 第2部」 四方田犬彦「土地の精霊」 大友良英「ぼくはこんな音楽を聴いて育った」

この連載について

初回を読む
日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

ninetailsfox63 建築家を業者扱いするジャップって書いてあって、新国立競技場騒ぎと同じと解説してるが、この本を読んでそんな感想が出るのがかなり不思議。 26日前 replyretweetfavorite

otokanaaria なんか出てきました 2年以上前 replyretweetfavorite