洋子は、蒔野を愛することによって美しくなり、これから蒔野に会うために美しいのだと、三谷は感じた。そして、身を裂かれるような激しい嫉妬に襲われた。
彼女は、夥しい数の乗客が行き交う改札の付近をうろうろした。時々人にぶつかりそうになり、何をしているのかと不審らしく振り返られた。苛々した。長居すると洋子に気づかれ兼ねず、実際、ここに留まっていても仕方がなかった。
恋敵が、一回り近くも歳上というのは、これまで経験したことがなく、三谷は、三十にもなって、自分を酷く子供染みていると感じた。
洋子が蒔野に
洋子は、何もかもに恵まれて、華々しい、自らが主役としての人生を生きている。そして、自分は今、蒔野の人生の脇役として、擦れ違いかけた二人の人生を、この携帯電話を届けることで再び結び合わせようとしていた。なるほどそれは、他の誰にも務まらない重要な役どころに違いなかった!
三谷は、惨めな気持ちになった。残酷な皮肉だったが、そもそもは自分で買って出た役目だった。蒔野はその間に、洋子からの着信があったとしても、まさか自分が傷つくとは夢にも思っておらず、暗証番号さえ教えるほどに、人間としては自分を信頼しきっていた。残酷なのは彼というより、恐らく何か運命的なものだった。
エスカレーターで大江戸線の改札へと向かいながら、三谷はただ、蒔野に洋子と会ってほしくないと思いつめていた。そしていつか、その一念こそが、すっかり三谷を飲み込んで、三谷という一人の女のことを物憂く考えていた。
ホームのベンチに座って、蒔野の携帯に届いていた洋子のメッセージを見つめた。
ひっきりなしに電車が往来し、その騒音に紛れまいとする乗客たちの話し声が、三谷を益々孤独にさせた。
三谷は、学校に行きたくないばかりに、自宅に火をつけてしまう少年のような、奇妙な勇気へと追い詰められていった。重要なことは、とにかく、洋子と蒔野とが今夜会わないということだけだった。 洋子は蒔野に何を告げられれば、彼との関係を断念するだろうかと、そのことだけを考えた。問題は二人ではなく、二人の愛だった。
三谷は、徐に顔を上げると、理由はわからないが、洋子と会って以来、蒔野が音楽的な危機に陥っているというのは事実なのだと自分に言い聞かせた。そして眉を顰めた。
「洋子さんへ」と、蒔野の送信履歴を参考にメールを書き出すと、三谷は一気に次のように書いてみた。
「連絡、遅くなってごめんなさい。
あなたに謝らなければならないことがあります。
ギリギリまで、ずっと悩んでいたのですが、僕はやっぱり、今回、あなたに会うことはできません。
もう何カ月も考えてきたことですが、僕の音楽家としての問題です。あなたには、何も悪いところはありません。ただ、あなたとの関係が始まってから、僕は自分の音楽を見失ってしまっています。状況を改善するために努力をしてきましたが、表面的にごまかし続けるのは、誠実じゃないと思います。あなたに対しても、自分に対しても。
あなたのことがずっと好きでしたが、この先もそうである自信を持てません。だったら、後戻りができるうちに、ケジメをつけるべきだと思いました。
会ってしまうと、僕はまた自分を偽り、あなたを騙してしまうでしょう。
ただの友達として、また再会できる日を楽しみにしています。でも、しばらく気持ちを整理する時間が必要です。
あなたに会えたことを感謝しています。ありがとう。
蒔野聡史」
書いている間中、頬が冷たく火照ってゆくような奇妙な感じだった。
送信しないまま、三谷は次に来た電車に乗って赤羽橋駅に向かった。蒔野に言って欲しかった言葉であり、彼女自身の思いであり、また願望であって、洋子がその意味を誤解する余地のない常套句の数々だった。
座席について読み返して、自分が書いたのではないような錯覚を抱いた。洋子と蒔野とが互いに連絡を取り合っているメールがあり、三谷自身の送信した仕事のメールがあり、そのあとに、蒔野が自分で書いたメールが未送信のまま残っているかのようだった。
三谷は、なぜか急に眠たくなって目を瞑った。駅に着くまでには、消すつもりだった。現実は現実として進んでゆく。その途中で、束の間、蒔野がこんなメールを洋子に送るところを夢想してみたとしても、誰からも咎められないはずだった。罪悪感に駆られて、自分は結局踏み止まり、すべてをなかったことにして、この携帯電話を無事に蒔野に届けるだろう。そうして、自分の蒔野への愛も、なかったことになる。——
もし送信したなら? 洋子は、蒔野の世界からいなくなるだろう。消え去ってしまう。ただ親指で、この送信ボタンに一度触れるだけで。まるで魔法のようだった。自分じゃなくても、同じ状況になれば、誰でもきっと、そうするのではないだろうか?
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