美島こずえは、ネットでの騒ぎのあと簡単な釈明のコメントを発表し、アフレコに復帰していた。おそらく周囲にあれこれ言われ、渋々謝ったのだ。
だがオレは録音スタジオに行って彼女の復帰を喜んであげることも、また彼女に新しいシナリオやキャラ表を送ってあげることもできないでいた。ケイゾー・ファイルに関することで、現場は大騒ぎになっていたのだ。その追加設定を生かすには、すでに決定稿になっているシナリオまで部分的に修正する必要があった。それにシナリオが変更になれば、現在進行中の絵コンテやレイアウト、原画の作業にも影響が出てくる。オレは遅れを取り戻そうと三日と空けずにシナリオ打ち合わせを組んだが、制作スタッフは日に日に殺気だっていった。
ところがそんな日々に追われていたというのに、オレはいっぽうで間が抜けたといおうか、ちょっと人には言えない状況に度々遭遇していた。
ある時、会社の駐輪場に停めた原チャリに近づくと、その
だがそれでいて、美島こずえの気配を感じる度に、星山さんとの宿題でイッパイイッパイになっている頭の中で彼女とケイゾー・ファイルとが結びついていった。
記憶を奪われ仮死状態のシュオンにケイゾー・ファイルが必要なように、あの時、自傷の跡を見せた美島こずえは、死んだも同然だった過去の自分をオレに受け止めてもらう必要があったのではなかったか。なのにオレは、そんな彼女に激しく反発を覚えた。だが大石さんみたいにオレから見ればすごい大人に見える人でも、いまだに親を憎む遺伝子を恐れていたりする。自殺する遺伝子で何年も脅かされてきたオレが、愛情に餓えて育ったと訴える彼女にほんのすこし寄り添ってあげられてもよかったはずなのだ。
結局美島こずえにメールを送れたのは、公園で会った日からひと月以上経っていた。アフレコ復帰、よかったですね。東京アニメの連中も喜んでますよ。頑張ってください。悩んだわりには、しょーもない文章しか浮かばなかった。
三日、返事はなかった。だが、たったひと言短い返信があった。「政治家の釈明と同じです」そして添付のアニメキャラが、アッカンベーをしている。そのアッカンベーが、表向き謝ってはいても心の中では舌を出してるってことなのか、それとも公園でオレを置き去りにした時のままの感情表現なのか、分からなかった。
なんにしても彼女とようやく会えた日は、制作進行のオレとしては無条件で彼女に頭を下げなくてはならないシチュエーションだった。
◆
「まさか、“線撮り”をお見舞いしてくれるとはね」
待ち合わせた駐輪場に行くと、オレの原チャリに座った美島こずえがそう言って睨んだ。久しぶりだった。そして久しぶりの、サド的な突っ込みの笑み。オレは例の意味不明の笑みを返し、ぺこりと頭を下げた。すんません。ご迷惑おかけしました。
本来アフレコには声優が演技しやすいように、全カット彩色されたビデオが用意される。ところが制作スケジュールが大幅に遅れたため彩色が間に合わず、線撮りといって動画またはその前段階の原画(つまり線だけ)を撮影して、急遽アフレコに間に合わせる場合がある。ところがこの日オレの担当した回は、原画さえ上がらなかったカットもあり、レイアウト一枚だけ撮影したというカットがいくつもあった。中には、シュオンがしゃべるカットもある。シュオンのセリフが入るタイミングには、赤のマジックで線が引かれているだけだった。
「赤のマジックで、どう演技しろってんだよ?」
「てめぇー、って?」
「ばーか」
共有するキャラに助けられ、オレたちはなんとか再会の笑みを交わした。
アフレコはいつもの倍、時間がかかった。
線撮りはもちろん、さらに“白味”と呼ばれる何も映っていないカットが続くと、声優たちも自分の受け持ちキャラがどこで出てくるのか分からなくなる。演技する以前に混乱し、金魚鉢の中から度々中断の要請が上がった。過去には、著名な声優が「こんな紙芝居見せられても演技できません」とアフレコをボイコットした例も少なくないという。
ようやく収録が終わり、金魚鉢から出てきた声優たちに頭を下げていると、美島こずえと目があった。丸めた台本で、いっぽうの掌をぽんぽんと叩いてみせる。話があるときの合図だった。だがひと月以上もブランクがある。オレが真意を測りかねていると、彼女はすれ違いざま囁いた。「謝りたいでしょ? 待ってます」それが線撮りのエクスキューズを要求しているのか、それとも公園でのことを謝りなさいよと言っているのか分からなかった。だがその時、美島こずえの匂いが鼻をかすめた。あの、匂いだった。それでオレは、どっちでもいいやと思ったのだ。
録音スタジオの裏手にある駐輪場は、駅に近い正面側とは違ってめったに人が通ることはない。そのためオレと美島こずえは、時々資料を渡すときなどにここで待ち合わせることがあった。なんせ売り出し中の声優とオレのような進行とでは、ふつう接点がない。一緒にいること自体、不自然なのだ。
「ケイゾー・・・ファイル?」
シナリオが遅れてメールできなかったこと、そして宿題を抱えているといったことを話すと、美島こずえは大きく目を剥いた。
「そうなんすよ。シュオンの空白になった脳を、ぱっと覚醒させるようなもの」
「それって、やっぱりケイゾーにしか思いつかないことなんでしょうね」
「え?」
「つまり、ケイゾーは科学者ではあるけれど、ヒトの脳を科学的に分析してそのファイルに辿り着いたというよりは・・・」
「そうっすね。シュオンのことを知り尽くしているケイゾーだからこそ、その起爆剤に気づいた、というか」
美島こずえが、思考の森で思いがけずいいものを見つけたように、あらたまってオレの顔を覗き込んだ。「プレゼント・・・」
「え?」
「ですよねぇ。それってケイゾーからシュオンに贈られた、プレゼントみたいなもんじゃないですか」
星山さんとの話では、プレゼントという発想にまでいかなかった。だがすこしアングルを変えて考えてみれば、そのファイルはたしかにケイゾーのシュオンへの思いが凝縮した贈り物だと言えなくもない。
「なるほど」
「なんです?」
「あ、いやたしかにプレゼントだなって」
美島こずえは、すこし鼻で笑うと原チャリのシートから降りた。
「やだ、柏原さん、それを何にするのか考えなくちゃいけないんでしょ? もう当たりはついているんですか?」
「ぜんぜんっす」
「たぶん、シュオンの記憶の奥の奥のほうの・・根っこみたいな部分に結びついてるんだろうなぁ。それをきっと、ケイゾーくんはずっと前から気づいて掬いとってあったみたいな」
オレは感心して「なるほどなるほど・・」と繰り返し、はてとなった。「オレ、今オッサン入ってました?」
美島こずえが噴き出し、肩にかかった髪を後ろに払った。ティンカーベルが光の粒を撒いたみたいに、
気づくと、美島こずえの顔が鼻先に来ていた。
「また、脳内会話です?」
「え?」
「柏原さん、よくトリップするから。この場にいて、この場にいないっていうか。それとも、この女いったい何考えてるんだろう、だとか?」
「あ、いやぁ」
一旦そう否定して、「あ、でもそうかな」とすぐに言い直した。
「この間、夜中に昔のアニメのラブコメやってて。ヒロインのこと、紫陽花に例えてました。ころころとキャラが変わり、主人公が翻弄される・・」
「つまり公園ではあんなに怒ったのに、今はけらけら笑いやがってって?」
「あ、いや。笑ってくれてるほうがいいっす」
美島こずえはまた笑い、そしてあらためて言った。「ヘンな人」
「いきなりっすか」
「ヘンですよね、柏原さん」
「きっぱり言う」
「だって普通、女の子ひと月以上もあのままにしますか?」
「あ、いや。怒ってるのかな、とか思って」
「ウソ。怒ったのは、柏原さんのほう」
「え?」
見抜かれていた。でもどうしてオレが怒ったと思ったのだろう。そう訊き返す前に、水没したスマホが生きてたみたいな驚きがあった。つまり。要は、嬉しかったのだ。
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