第六章 消失点(14)

祖父江が倒れ、洋子に連絡をしたい蒔野、携帯を紛失した彼が思い出した電話番号は、マネージャーの三谷の番号で...。

「聡史君、ごめんね。……何か予定があったんじゃないですか?」

 十代の頃には、家族同然に親しんだだけに、少しく縁遠くなり、久しぶりに再会すると、思いがけず敬語が口を突いたりと、互いの口調そのものがなかなか定まらなかった。

 蒔野は、大丈夫だと言ったが、

「ちょっと、電話してくる。」

 と断って公衆電話を探しに行った。

 テレフォンカードを買い、久しぶりに手に持った黄緑色の受話器は、懐かしい重さだった。どこに電話すべきか途方に暮れ、番号案内の104を思いついたが、タクシー会社の名前さえわからないのであれば、無駄だろう。知人に助けを求めるにも、そもそも、誰の電話番号も、今はもう記憶していなかった。

 蒔野はふと、三谷が何度か、自分の電話番号の語呂合わせを語っていたのを思い出した。受験勉強の歴史の年号暗記を二つ組み合わせたもので、その滑稽な口調そのままに、彼の頭に染みついていた。

 電話すると、三谷はどこか賑やかな場所で食事をしている様子だった。

「どうしたんですか?」

「ごめん、休日に。ちょっとケータイをタクシーに忘れてしまって、それがどこの会社かわからなくて。三谷さんの番号しか覚えてなかったから。」

「えー、……自分の番号に電話してみました?」

「あ、……そっか。」

「普通、一番にそうしません? 大丈夫ですか、蒔野さん?」

 三谷は呆れたように笑った。

「実は、祖父江先生が脳出血で倒れて、今、赤羽橋の病院にいるんだよ。ちょっと危ないみたい。……」

 蒔野は、少しぼうっとした口調で状況を説明した。三谷は絶句していたが、すぐに、

「わたし、行きます、そっちに。お手伝いできることは何でもします。奏さんたちの邪魔にならないように、どこか隅の方にいますから。」

 と真剣な声で言った

 蒔野は、呼び寄せるつもりで電話したのではなかったが、そう言ってもらえると心強かった。万が一の時の関係者への連絡など、奏の負担を軽減する意味でも、三谷がいてくれれば助かるだろう。

「じゃあ、そうしてもらえるかな。せっかくの週末に、申し訳ないけど。」

「わたしの仕事ですから。携帯、タクシー会社に取りに行きましょうか?」

「うん、……そうしてもらえると、助かるよ。じゃあ、電話してどこにあるか確認して、折り返すから。」

「はい。蒔野さん、こういう時ですから、遠慮せずに何でも言ってください。その方が、わたしも何をすればいいのかわかって助かりますから。」

 *

 三谷は、新宿で女友達四人と食事をしていたが、蒔野から小金井のタクシー会社に携帯電話があることを伝えられると、すぐに電車で取りに向かった。

 このところ蒔野の顔色は冴えず、特に自分に対しては、冷淡とさえ感じられていたが、グローブの野田と仕事をし始めてからは、幾分、表情も和らいでいた。音楽家としての活動に、幾らか展望が開けてきたのかもしれない。結局のところ、蒔野の幸福とは、それ以外にはないのだと彼女は信じていた。

 タクシー会社では、すぐに電話を受け取ることが出来た。蒔野からは事前に暗証番号を教えられていて、中を見て本人のものであることも確認した。そのために、三谷は図らずも、そこに複数件残された洋子からの着信履歴をも目にすることとなった。

 雨は、タクシー会社を出る頃には、また一段と酷くなっていた。

 夜の足許が、水しぶきで白く打ちけぶっている。

 中央線で新宿まで出る間、三谷は、乗客たちが互いに濡れそぼった傘を気遣い合う、蒸し蒸しした電車に揺られながら、今日からの休暇を、蒔野は洋子と過ごす予定だったのだということを考えていた。

 恩師の危篤のために動揺し、他でもなく自分を頼ってきた蒔野の力になりたい一心で、土砂降りの中、「こんな日に仕事で呼び出されるの!?」と友人たちに目を丸くされながら、イタリアンのコースをパスタまでで諦めて、電車に飛び乗ったのだった。自分が二人の恋愛の成就の手助けをすることになるとも知らずに。

 何をしているのだろうと、彼女は自分の人生を顧みた。蒔野のために尽くしたい。—その思いは純粋だったが、彼への愛は、どうやら報われそうになかった。むしろ、その不可能を今、自分の手で確定させようとしていた。

 洋子はつい先ほど日本に着いて、今は成田エクスプレスに乗っているのだという。丁度そんなことを考えていた時、握り締めていた蒔野の携帯電話が短く震えた。

 三谷はそれを、すぐには確かめなかった。新宿駅に到着すると、車両自体が苦しさに耐えかねたかのように、彼女もろとも乗客たちをホームに吐き出した。流されるがままにエスカレーターに乗り、少し気が遠くなるのを感じながらメールを開封した。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

corkagency 祖父江が倒れ、洋子に連絡をしたい蒔野、携帯を紛失した彼が思い出した電話番号は、マネージャーの三谷の番号で...https://t.co/v9EPusgV1T #マチネの終わりに 5年弱前 replyretweetfavorite