chapter6-5 コーヒー一杯の幸福

直子との距離は少し縮まったように思えた。僕は彼女のことをもっと知りたくなった。彼女も同じ気持であってくれたらいいけど。僕たちはカフェに来た。

 すこし歩いて、ガイドブックに載っていた近くのカフェに来た。

 平日だからなのか、店内はとても空いていて、僕たちの他には観光客だと思われる女の子のふたり組がいるだけだった。

 僕たちは窓際の席に座り、ふたりともホットコーヒーを注文する。

 コーヒーが運ばれてくると、直子は角砂糖をひとつカップの中に落とし、よくかき混ぜてから、ミルクをすこし入れた。

 僕も同じく角砂糖をひとつ入れてよくかき混ぜてから、ミルクをすこし入れた。

「まあまあのコーヒーね」と直子は言った。

「ふむ」と僕はうなずいた。「わざわざおいしいコーヒーを飲みに伊豆に来る人はいないだろうけど、思ったよりおいしいね」

「わたなべ君は、コーヒーの味がわかるの?」

「缶コーヒーと安いカフェのコーヒー、ちゃんとしたカフェのコーヒーの違いぐらいはわかるよ。家では挽いたコーヒー豆を買ってきてペーパードリップで飲んでる。豆を買ってきて自分で挽いたこともあるよ。昔、ちょっとつきあってた女の子が、コーヒーを自分で淹れるのが好きで、僕の家でいつも作ってくれたんだ。それで僕の家にはコーヒーミルとドリッパーとサーバーがそろってる。ところで、ここのお店はコーヒーフレッシュじゃなくて、ちゃんと牛乳を持ってきてくれるところがいいね」

「それだけわかれば十分よ」と直子が感心した。「コーヒー豆の違いや淹れ方の違いまではわからない?」

「そこまでは」と僕はこたえた。「直子はわかるの?」

「そうね。一度カフェで働いていたことがあって、すこし自分で勉強してみたの」

「へえ」

「コーヒーの味を決めるのは、もちろんまずは豆の種類でしょ。それから焙煎の仕方。次にブレンドね。それから挽き方でしょ。もちろん淹れ方も重要。最後は飲み方ね」

「コーヒーってのは奥が深いんだね」

「そうよ。とても奥が深いの。わたなべ君は、コーヒーの飲み方は何が好き?」

「飲み方って?」

「カフェオレとかカフェラテとかカプチーノとかエスプレッソとか。それともこうやってレギュラーのホットコーヒーが好き?」

「そういえばコーヒーの飲み方ってそんなにいっぱいあったんだ。さすがに世界で一番飲まれている飲み物だけのことはあるね。よく考えてみると、そのときの気分で何が飲みたいか変わってくるよ。お腹が空いているときは、ミルクがたっぷりのカフェラテにハチミツを入れて飲みたいし、食後に飲むときは、こんな感じで砂糖をすこし、ミルクもすこしのホットコーヒーがいいね。風邪気味のときは、牛乳とコーヒーが半分ずつの温かいカフェオレを自分で作って飲みたいかな」

「その最後のカフェオレの飲み方は、私と同じよ。カフェオレの起源って知ってる?」

「さあ、知らないな」と僕はこたえた。

「中世のヨーロッパでね、お医者さんが、貴族に咳止めの薬として処方したのが最初なんだって」

「へえ」と僕は感心した。「どおりで、風邪を引いたときに飲みたくなるわけだ」

「それから、庶民にもカフェオレが広がって、ハチミツを入れたり、パンを付けて食べたりして、パリの朝食に欠かせないものになったの」

「カフェオレがパリで流行ったのは、きっとパスツールの発明のおかげだよ」

「パスツール?」

「フランスの細菌学者。低温殺菌法を発明したんだ。彼は60度ぐらいに熱するだけで、ワインや牛乳の中のバクテリアを殺せることを発見した。こうやって風味を損なわずに、ワインや牛乳を殺菌できるようになったんだ。低温殺菌のことを英語でパスチャライゼーション(Pasteurization)って言うんだけど、これはパスツールから来てるんだよ。低温殺菌法の発明のおかげで、パリでおいしい牛乳が出回りだしたから、カフェオレがたくさん飲まれるようになった、というわけ」

「なるほど。そうかもしれないわね」と直子が感心してコーヒーをまた一口飲んだ。

 僕もまたコーヒーを一口飲んだ。

「こうやって、おしゃべりしながらゆっくりとコーヒーを飲むのもいいね」

「うん」と直子がうなずいた。

「ところで、どんなことをしているとき、直子は一番くつろげる? リラックスできるというか、落ちつくとき」

「そうだな。たとえば……」

「たとえば?」

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ぼくは愛を証明しようと思う。

藤沢数希

恋人に捨てられ、気になる女性には見向きもされず、非モテな人生をおくる主人公のわたなべ。ある日、恋愛工学と出会い、彼の人生は大きく動き出す……。 ファイナンス、経済学、エネルギー政策に関する著作をもち、リスク・マネジ...もっと読む

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