日本建築論

​戦時下の建築論:第8章(2)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。

○新国立競技場問題と戦時下の日本

 2015年7月、安保法制の強行採決と引き換えではないと考える方が不自然なほどの絶妙なタイミングで、新国立競技場のザハ・ハディド案が白紙撤回となった。理由は明白、オスプレイを高額で購入し、今後、軍事費は確実に増える一方、税収の配分はパイの奪いあいとなり、建設費にお金をかけるのは許されない空気が生まれたからである。現在、仕切り直しのコンペを予定しており、「和風」を加味したデザインが望まれているようだ。

1940年代、戦時下の建築の状況も少し似ている。1937年からすでに日中戦争に突入しており、次々と大型の建築プロジェクトが中止になった。鉄の使用を抑えて兵器製造にまわすこと、また節約をアピールすることが目的である。その結果、木造のモダニズムが工夫されたり、経済性が重視され、簡素な建物が計画されるようになった。また洋風の建築が国辱的だと批判され、コンペの要項で日本趣味のデザインを求めるようになり、帝冠様式が登場した。

 実際に戦争こそ起きていないが、現在も危機的な状況のなかで、外国人の建築家を外し、経済性と日本らしさが同時に求められる。ただ、唐突に関係閣僚会議で、今度の国際コンペは「日本らしさ」を重要な要件にすると報道された。9月に公募を開始するコンペまでわずか2ヶ月であり、まともな日本建築論が語られているとは思えない。

 一方、戦争が激化していたにもかかわらず、1944年に建築批評家の浜口隆一が執筆した論考「日本国民建築様式の問題—建築学の立場から」は、きわめて高度に練られた内容だった。20世紀半ばのモダニズム的な視点からの日本建築論としては最高の到達点と言えるものだろう。川添登は、戦中は実作の機会が少ないために、「思案や対論の時間は、たっぷりとあり、建築は、まず第一に思想であり論理であるということは、誰にとっても自明の理となっていた」と回想している(「序文 市民社会のデザインの倫理と論理」『市民社会のデザイン—浜口隆一評論集』而立書房 、1998年)。

 論文の冒頭は、以下のような文章で始まる。「新しき日本建築様式の樹立に最も真摯な努力をつづけておられる前川國男氏・丹下健三氏にこの小論を捧ぐ」。もともと、これは1943年の在バンコク日本文化会館コンペの結果、丹下が一位、前川が二位になったことを受けて書かれた文章だからである。すでに1930年代から、ナショナリズムの興隆を意識して、和風の外観を即物的に合成する帝冠様式が跋扈してきたデザインの状況を憂い、浜口は批評家として、モダニズムの建築家によるこうした潮流への抵抗を援護射撃しようとしたのだ。かつてギーディオンが、国際コンペで敗北したル・コルビュジエやバウハウスの建築家らのモダニズムの活動を歴史的なパースペクティブを備えた建築論でサポートしたように。

○日本国民建築様式の問題

 浜口による渾身の日本建築論は長文であり、『新建築』1944年の1、4、7/8、10月号の四回にわたって掲載され、現在は『市民社会のデザイン』に収録されている。非常に重要な論文なので、ここではていねいにその内容、すなわち議論の進め方を見ていこう。

 まず最初に彼は、建築学とは何か、を説明する。それは「建築とは一体如何なるものであるか」を知り、究めること。どう作るかではなく、在り方を問うものである。ゆえに、それは工学というよりも、「文化科学・歴史科学に属するもの」だ。そして海の汽船になぞらえて、建築学は建築家にこう進むべきと命令はできないが、建築家が決めた進路に対して、広い視野からそれがどういう意味をもつかを明らかにするという。槇文彦の話題になった論文「漂うモダニズム」(『新建築』2012年9月号)も、現代の状況を進むべき指針を失った船のメタファーを用いて論じていたが、浜口は建築家を支えるものとして建築学を考えている。

 続いて、バンコクのコンペを契機に、「われわれの眼前に切実に浮かびあがっている日本国民建築様式の樹立という問題について考えたい」という。その手がかりとして、第一に建築様式とは何か、第二に日本の過去の建築様式がどのようなものだったかを分析し、美術史の理論を参照しながら、様式の捉え方には二つの類型が存在とすると指摘する。

 類型の第1はヴェルフリン、パウル・フランクルらによる鋭い観察眼で制作者の意図と関係なく、共通する外的な特徴をえぐりだす様式概念。第二の類型は、リーグル、ドヴォルシャーク、ヴォリンガーなどのウィーン学派の作り手の「芸術意欲」にもとづく様式概念である。そしていま日本の実践的な問題を考える際、前者は当事者と離れた時代からの視点を前提とするのに対し、制作者に寄りそい、つくる人間の意図を考える後者の類型が意義をもつと指摘する。

 浜口は、第二の類型から、過去の建築様式を考察しようとするが、第一の類型から日本建築史という学問がこれまで形成されてきたために、参照すべきものがなく、自らそれに着手する。「建築意欲」と向きあう際、過去の遺構を観察するだけでは不十分であり、当時の人々の考えを知るために、詩歌、手紙、日記など、言語による資料を用いながら、解釈しなければならない。また浜口は、世界の建築の類型論的な立場から日本の過去の建築様式を考察する道を選び、西洋建築との比較を行なう。日本国民建築様式を樹立するためには、「現代の日本の建築のなかにあまりにも深く喰いいり、しかもやはり外なるものとしての「西洋建築」こそわれわれにとって否応なしに問題とせざるをえない」からだ。

 浜口によれば、西洋の建築様式は、古代ローマのウィトルウィウスの言説を分析すると、「「柱」によって象徴されるもの、つまり「物体的なもの・構築的なもの」に対する徹底的な傾倒を見出さないわけにはいかない」。また古代の神殿や石の構築可能性を究めたゴシックや、造形的な美としてのルネサンス建築にも触れて、これらを人の行為のための「空間的なもの」とは違うと考える。正確にいうならば、西洋において「空間的なもの」がないわけではないが、その価値は低く、「物体的・構築的なもの」の方が圧倒的に重要なのだ。また建築史学も、物体的・構築的なものにおいて様式を見出すという。

○空間論の系譜に連なる問題提起

 では、日本はどうか。日本建築史は、屋根のタイプ、軒先まわりの構成などの形式、あるいは千木(ちぎ)、斗組(ますぐみ)、虹梁(こうりょう)などの部位に注目し、西洋の手法を採用しているが、彼は「このことに関してわれわれは根本的な疑惑をいだく」と意見を表明した。ゆえに、「もし昔の人間の建築意欲の傾向がとらえられるとすれば、その方向性において、日本建築様式史の全体像が新しく描き直されねばならぬ」という。

 当時の文字資料が少ないことから、浜口が注目したのは、「昔の日本の人間が建築について語った最も根本的な言葉の一つであるいわゆる建築の間面(けんめん)記法」だった。例えば、五間四面と記述された建築ならば、「母屋—内陣の桁行(けたゆき)方向の柱間が五で、それに庇—外陣が四つ付いている」。ウィトルウィウスが柱という物体を基準に建築を記述するのに対し、「七間二面」などと記すように、日本では柱間の数を示す。つまり、「間(ま)」である。ここから彼は西洋とは違う、日本建築における空間的なものへの関心を指摘した。

 次に、近代以前の日本では西洋における「architecture」に相当する概念がなかったことをめぐって議論が展開される。明治時代に構築的なものを志向する「建築」という訳語が固定化されるのだが、むしろ彼が注目したのは、「建築」が使われる前に学科名や学会名に用いられた「造家」という言葉である。彼によれば、家の文字は構造を包括するものではなく、住むという用途を内包し、むしろ行為的・空間的なものに重みがある。ほかにも藤原道長や鴨長明のテキストから、住むという行為の重要性を指摘した。その理由は、木と石の対比だという。「石の用いられた建築にあっては、その構築的な要素が自ら人間の努力を多量に吸収することによって、言ってみればそれは価値を握って重くなってくる」。一方、軽く柔らかい木だと、構築が究極の目的とはならない。浜口も桂離宮を賞賛し、日光の東照宮は「物体的・構築的なものに対する倒錯的な飽くことなき傾倒」があり、失敗だという。一方、寝殿造は明らかに行為的・空間的なものである。

 おそらく、間面記法から「間」の概念、あるいは言葉やテキストから「行為的・空間的」という特性を導いたことが、本論の最大の成果だろう。

 こうした視座は戦後にも受け継がれた。もっとも有名なのは、磯崎新が1970年代にパリで企画し、その後、世界各地を巡回した「間」展だろう。彼によれば、「外部からの視線が組みたててきた「日本」とは違ったものを、さしあたり時空概念の相違として提出」したものであり、さらに「ひもろぎ」、「うつろひ」、「さび」など、9つの概念に分解しながら、アーティストやデザイナーらも参加した企画である(『反回想 1』A.D.A.EDITA 2001年)。磯崎は、いずれも「間」を共有する「時間」と「空間」が未分化な日本の概念として、この議論を展開した。

 1969年に発表された神代雄一郎の「九間論」も重要だろう。彼は日本建築の様々な領域で、三間四方の正方形の部屋が登場することに注目している(『間(ま)・日本建築の意匠』鹿島出版会、1999年)。彼も柱の間を計ることを指摘したが、興味深いのはいわゆる歴史学ではなく、デザイン論として展開していることだ。時代やビルディングタイプの違いを超えて、同一の形式を見出す論は、ちょうどコーリン・ロウの『マニエリスムと近代建築』(伊藤豊雄・松永安光訳、彰国社、1981年)における態度と似ていよう。また井上充夫『日本建築の空間』(鹿島出版会、1969年)は、浜口と同様、西洋美術史的な視点から独自の建築論を生みだしているが、斗供(ときょう)などの部位ではなく、まさに日本建築の「空間」の歴史を論じるものだ。そして単純な幾何学とは違う、位相幾何学的な接続関係をもつ「行動的空間」の概念を抽出している。

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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ora109pon 戦時下の建築論:第8章(2)| 約4年前 replyretweetfavorite

rihitoendo 工費がなぜこれほど削られたのかという理由がこれらしい。興味深い。https://t.co/uocZVPRpDP / “新国立工費上限は1550億円に=冷暖房見送り、収容6万8000人―政府 (時事通信) - Yahoo!ニュース” http://t.co/MMqENxzBIU 約4年前 replyretweetfavorite

consaba 戦時下の建築論:第8章(2)新国立競技場問題と戦時下の日本| 約4年前 replyretweetfavorite

tamatama2 戦時下の建築論:第8章(2) | 約4年前 replyretweetfavorite