店を出るともう暗くなっている。これから原宿のマンションに寄って、家に帰ればもう夕食の時間も終わっている時刻だ。タミさんと真赤はおそらく食事のために外出するだろうから、その際にコンビニなどによって、今日が何の日であるか気がつかぬだろうか。そうして僕にチョコレートなどくれないだろうか。まあ、そんな陳腐な期待をするものではないか。それにしても疲労困憊である。最近ちっとも寝ていないものな。特にこの二日など、一睡もしていない。それでも動けるというのは、情熱の為すわざなのだろう。我ながら驚きだが、さすがにそれも限界に来ている。足が重い。街のネオンがやたらとまぶしく感じられる。目も疲れているのだ。
真赤のマンションに、一人で足を踏み入れるのは初めてだった。途中で主婦とすれちがったが、不審の目では見てこない。僕はこんな高そうな場所に住むような人間には見えないはずなのだけれども、案外他人のことなど気にしないのかもしれない。部屋のドアを開けると、すぐ目の前にスポーツバッグがあった。ここで靴を履くために手を離してしゃがみ込み、そのまま置き忘れてしまったのだろう。二人もいてどうして気がつかなかったのか。他に何も忘れていないか、そっと奥の方を窺う。前以上にがらんとして何もない。布団も持って行ってしまったし、もう人が住む最低限の設備さえ存在しないのだ。後戻りは出来ないということだ。
帰り道は、ほとんど歩きながら眠りそうな有様だった。昼は人といることで誤魔化されていた部分もあったに違いない。一人でいると睡魔が僕を狙い撃つ。満員電車の圧迫のなかでも、ともすればそのまま密集に身体を預けて目をつむってしまう。そうして坂を下り、上り、やっと花園シャトーに辿り着くと、ドアを開ける前から二人の笑声が聞こえてくる。
「ただいま」
つぶやきながらなかに入っても、彼らは僕に気づかず、リビングのドアを開けたところで、やっと「おかえり」とタミさんが顔を上げた。
二人はやたらヘラヘラと笑っており、身体の動作も緩慢だ。これはあれだな。何か向精神薬でも飲んでしまっているのだな。ローテーブルを向かい合って囲む彼らの間に僕も腰をおろした。
「ねえミズヤグチさん、さっきすごくひどかったんだよ」
真赤はとろけてしまいそうな隙だらけの笑顔を浮かべている。
「本当にろくでもなかった。あれはやばいよ」
タミさんも同じような顔をしていた。
「何があったの?」
「おなかが空いたから、二人で駅の方まで言って、ご飯を食べてたの」
「行く前に、二人ともロヒを飲んでさ、ふらふらになりながら、歩いて行ったんだ。それでなんとか店についたんだけど。ほら、知らない? 駅のそばにとんかつ屋があるじゃん」
「わからないな。そんなのあるんだ」
「うん、そこに入って、料理を注文したんだけどさ……」
タミさんはそこで思い出したのか、くっくっと笑い出すと、かわりに真赤が続ける。
「タタミザワさんがほんとうにひどくってね、こう、身体をゆらゆらと揺らして倒れそうになって、ばんってとんかつの上に手を突いちゃったの」
その時の状況を再現したのか、彼女は手のひらを広げて、机の上を強く叩いた。ばん、と音が鳴る。
「それがおかしくて、二人でけらけらと笑って、止まらなかったんだ」
「あれは、店内の他の客にはどう映ったろうなあ。絶対おかしいと思ったよ」
「そりゃひどいなあ」
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