午後六時半頃、蒔野の自宅の電話がなった。恩師である祖父江誠一の娘の
「どうしたの? 珍しいね。」
「実はあの、……お父さんが脳出血で倒れて、救急車で運ばれて。」
「……今どこ?」
「病院だけど、先生が、危険な状態だから、知らせるべき人には連絡した方がいいって言うから。聡史君には一応、と思って。」
温厚な性格の奏は、気丈に落ち着いた口調で伝えたが、その声は、冷たい床の上に、裸足で立たされているかのように微かに震えていた。
病院の名前と場所を聞くと、蒔野は、時計に目を遣って、「すぐに行くから。」と電話を切った。祖父江の死に目に会えないかもしれないということ、助かっても後遺症でギターはもう弾けないのではないかということなど、様々な考えが一時に溢れ出して、胸がいっぱいになった。病院の場所をネットで調べると、すぐに家を飛び出した。
洋子にも連絡しなければならなかったが、状況がわかってからの方が混乱がないだろう。パリでの再会の時にも、ジャリーラの一件で擦れ違いそうになった。そういう偶然も、年齢的な必然であるような気がした。社会的な関わりが増え、親しい人たちが老いてゆく今であればこそ。——万が一のことを考えて、自分は長崎に行けるだろうかと、少し心配になった。
通りに出ると、すぐにタクシーを拾って、病院の名前を伝えた。五十がらみの女性の運転手は、それがどこにあるかを考えてみることさえせずに言った。
「ああ、お客さん、すみません、わたしこのあたりは全然道がわからないんです。」
「赤羽橋です。」
「まだ新人なもので。……いつもは小金井の方を走ってるんです。ほんとにわからなくて。」
「そのナビで調べてください。急いでるんで。」
「ナビは、……急がれますよね。ちょっと、あの、アレだったら降りていただいた方がいいかもしれませんね。ごめんなさい。」
一旦、走りかけたものの、運転手は左に車を寄せて停車し、ドアを開けた。蒔野は呆れて文句を言おうとしたが、その時間も惜しく、苛々しながらタクシーを降りた。運転席からは、弱々しい謝罪の声が聞こえた。蒔野は、丁度すぐ後ろから来たタクシーを強引に止めた。
今度は、問題なく車が走り出した。運転手は、
「お客さん、今、前のタクシー降りられたみたいですけど、何かありました?」
と尋ねたが、蒔野はそれに生返事をして、落ち着かないまま窓の外に目を遣った。
間に合うだろうかと、考えた。ほんの数カ月前に共演した時には、あんなに元気だったのに。
奏の兄の
フルートの道に進もうとして諦め、今は中学校の音楽教師をしている彼女。祖父江は、響に期待していたが、蒔野の目には、奏への愛情は格別であるように見えていた。病院で独り父の身を案ずる彼女の胸中が思いやられた。自分としても出来るだけのことはしたいが、と蒔野は考えた。……
病院に着く前から、車のフロントガラスを重たい音を立てて大粒の雨が打ち始め、やがて驟雨になった。
蒔野はタクシーを降りて玄関の自動ドアを抜けたところで、奏に電話しようとして、自分が携帯電話を持っていないことに初めて気がついた。
家を出る時には、確かに手に持ったはずだったが、記憶が曖昧だった。タクシーに置き忘れてしまったのだろうか? ゆったりとした化繊混じりの綿のズボンだったので、ポケットから滑り落ちてしまったのかもしれない。
洋子と連絡を取る術がなくなってしまった。約束の時間までにはまだ余裕があるので、彼はとにかく、受付に尋ねて奏の元に急いだ。
奏は、一人でベンチに座って手術が終わるのを待っていたが、蒔野を見ると、立ち上がって涙ぐんだ。憔悴していた。蒔野は、肩の辺りに手を添えて宥めながら、
「大変だったね。」
と声を掛けた。
祖父江は、妻を亡くした後、ギター教室を併設した——蒔野もよく通った——自宅で、独り暮らしをしており、奏は家族を連れて、月に一、二度は様子を見に行っていた。今日は丁度その日だったが、倒れているのを発見した時には、既にかなり時間が経っていたらしい。
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