楽譜と、蒔野さん自身の演奏動画をオフィシャルサイトにアップして、参加者には、クラシックギターに拘らず、手持ちのギターでそれを弾いてもらいます。世界中の“ギターを囓ったことがある人”を集められたら、結構な規模になるはずです。——これは、クラシックギターだからこそ可能な方法です。チェロやヴァイオリンとなると、ちょっと難しいですから。」
野田は、そのために、やはり《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》を完成させてほしいと提案した。アルバムを出すだけではなくて、今説明したような仕組みをネット上に作って、ファン層の裾野を拡大したい。三谷が言うように、蒔野のバッハやロドリーゴを聴いてもらうのは、その先の話だと。
蒔野は、野田の言わんとするところを理解できた。テレビ番組などで、ロックやジャズのギタリストたちと共演する時には、こちらが意外に感じるほどに、クラシックギターの技術に興味を持たれたし、アレンジに関する意見交換は有意義だった。ピックで弾くか、指で弾くかという問題は小さくはなかったが、アルペジオ主体の遅いテンポの曲なら、楽譜を共有することは、さほど難しい話でもなかった。
《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》に改めて着手するというのは、億劫だったが、このアルバムを、ジャリーラに捧げるというアイディアを思いついてからは、やる気を取り戻していた。あの晩、彼女が自分の演奏を喜んでくれた表情が忘れられなかった。どんなに洗練された愛好家に称讃されるよりも、彼女が感動してくれたという事実は、今の蒔野にとっては、自分の音楽を信じるための一つのよすがだった。
アルバムのクレジットに、自分の名前が献辞として入っていたなら、きっとジャリーラは喜んでくれるだろう。その笑顔のためだけでも、完成させる価値はあるのかもしれない。
ジャリーラだけでなく、彼女に寄り添い、その生を支え続けている洋子も、賛同してくれるに違いなかった。
ジャリーラは、彼が初めて、洋子と一緒に心配し、手を差し伸べたいと願った掛け替えのない存在だった。
来日期間の短さについて、蒔野は、
「そんなにすぐパリに戻るの?」
と洋子に尋ねたが、彼女はそれに対して、
「うん、ジャリーラのことも心配だから。……」
と言葉少なに答えていた。
蒔野はその時、自分があまり良い返事をしなかった気がしていた。洋子ともっと長い時間を過ごせると思っていたので、落胆したのは事実だった。しかし、自分がジャリーラの存在を疎ましく思っているわけではないことは知ってほしかった。
正式な難民認定を受け、ジャリーラは今では、洋子と別居することも可能だった。三年ほど経てば、市民権を得ることも出来る。元々、亡命先としてスウェーデンを選んだのは、非合法の仲介業者の都合であり、ジャリーラは、このままフランスに住み続けたいと思い始めているらしかった。
洋子は、パリで暮らす中東やアフリカからの移民の生活難を知っているので、それが本当に良いのかどうか迷っていたが、いずれにせよ、フランス語の能力が問題になるので、少し前から教え始めたと語っていた。
結婚後の生活の拠点は、当面、東京に置くということで落ち着きつつあった。しかし蒔野は、ジャリーラを独り残してパリを去るという決断を、洋子は下せないのではないかという気がしていた。洋子と一緒にいたかった。しかしそのために、あの日、自分の音楽にあれほど感動してくれたジャリーラを孤立させることは忍び難かった。
東京ではそのことも話し合わなければならない。そうした複雑な思いが、洋子からあまりに短い滞在計画を告げられた時に、覚えず露わになってしまった。
ジャリーラのために。——そうして、《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》の着手に納得する一方で、その先の提案に関しては、畢竟、自分の演奏に満足し、精神的にゆとりのある時でなければ無理だろうとも感じていた。
ろくな演奏も出来ずに、ファンに囲まれて、かっこいいだのすごいだのと持て囃されている様を想像すると、いよいよ気が滅入った。
彼は三谷に、野田は今までのレコード会社にいなかった新しいタイプの社員で、一緒に仕事をしてみたいから、もう少し色んなことを話してみてほしいと、二人きりになった時に伝えた。
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