最後の出勤が終わって、僕の長きにわたるカラオケ店でのアルバイト生活が終了した。
その日は、ちょっと別れの挨拶はしたけれども、それ以外はどうということもないごく普通の一日であった。そりゃまあ、金箔を塗った豊満な肉体の美女が羽の付いた腰を振り振りさせながら花束を授け、店長の合図のもとにオーケストラが別れの音楽を奏でるような場面を想像したわけでもないけれども、やっぱり僕は特別に好かれてもいないのだなあと思い直す程度には平凡だった。その日同じシフトに入っていたのはフリーターのタバタさんで、彼女はいつも通りに遅刻して来て、いつも通り恋人への愚痴を語り、僕はそれにいつも通りの相づちを打ちながら、時間を過ごした。そしていつも通りに忙しくなって、いつも通りに暇になる。
タバタさんはベテランのアルバイトなので気楽な仕事だった。今日は本当はタナカさんのシフトであったのだけれど、彼は今週の頭から無断で欠勤をしており、彼女がかわりに出勤している。彼がどうしたのかは知らない。風邪か。頓死か。まあ、仕事がいやになったんだろうけれど、まさか僕より先に店からいなくなるとは思っていなかった。けれどもタバタさんは一言もタナカさんの話をせず、他の店員もしなかった。いなくなってもその存在感の薄さは変わらない。次はどんな仕事をするのだろう。
たまたま出勤していたオグラさんとも少し話した。彼は、今度銀座店に異動するのだそうだ。正社員採用へ一歩前進したと、嬉しそうだった。僕はそれはいいですねえと、気のない返事をしていた。
遅番がやって来ると私服に着替え、帰路につく。階段を降りて店を出て、最後に一度振り返ろうかなとも思ったが、結局そうはしなかった。このまま見ないで帰ろうと、いつもと何の変わりもなく、ネオンの下を歩いた。
スケジュールから労働という項目が完全に消えてしまうとなんとも言えない開放感があったが、だからといってその自由を積極的に有意義に使うわけでもない。次の日から僕は一日中布団の中で酒を飲み、部屋に音楽を流し、インターネット上の様々な情報をあてどもなく眺め続けたり、日がな一日ICQを使いネットでしか接点のない知人と雑談をしたりするという、きわめて無為なかたちで日々を消費することとなった。
もちろん、時々真赤とも連絡をとりあっている。高校の入学試験がもう目前に迫っているということで、さすがに頻度は減っていたけれども、時間があればむこうからかけてくれた。
そうして日が過ぎ、気がつけば真赤の試験の三日前になっている。すると、彼女はついに東京に戻って来た。といっても、あの原宿のマンションにではなく、どこか都心のホテルに宿泊しているとのこと。そこで最後の追い込みを行うのだそうだ。朝から晩まで家庭教師がついて、長時間勉強をさせられているらしい。もちろんその間外出は出来ないわけだから、すぐ近くまで来たとはいえ会ったりすることは出来ない。
『本当に最悪。どうしたらいいのかわからない』
と、ホテルに到着したその初日、彼女は僕にショートメールを送ってよこした。
でも仕方ないじゃないか。登校拒否児童であった彼女に勉強が不足しているのは当然であるし、ぎりぎりまで死力を尽くし、なんとしてでも娘の試験を成功させようという親の情熱も健全なものだ。こんなに協力してくれるなんて、普通の家でもなかなかないように思う。
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