第六章 消失点(11)

蒔野の音楽家としての不調は続く中、蒔野の所属するレコード会社の買収の件で、新しい担当である野田が現れる...。

 不景気な業界だけに、方々で色んな噂が飛び交っており、蒔野も半信半疑だったが、岡島は、ジュピターが買収される際に、所属音楽家たちの整理と取りまとめを行う代わりに、グローブでのポストを約束されたという話だった。実際、蒔野との面会のようなことを、彼はあちこちでやっていたらしいが、いずれにせよ、彼はどうしても、新天地で岡島と一緒に仕事をする気にはなれなかった。

 岡島は、確かにこの業界のことをよく知っていたが、それがほとんど唯一の自尊心の拠りどころだったので、昨今のCDの売り上げ不振に溜息を吐き、現代人の芸術的感性の劣化を嘆いて、「新しい試み」の必要を熱心に説きつつも、実際に部下の是永などが具体的な提案をする時には、癇に障ったように早口で捲し立てて、「そんなこと、出来るわけがない。」と冷笑する悪い癖があった。

 是永のやるせない分析によれば、岡島は、「そんなこと」に今まで自分が気づかなかったと思われるのが何より腹立たしく、当然、気づいてはいて、しかしやらなかったのは、相応の理由があるからだと弁明せずにはいられない、典型的な「バブルさん」なのだ、とのことだった。

 蒔野は、そんな上司と部下との鍔迫り合いに巻き込まれるのはご免だったので、大体、笑い話のように聞き流すのが常だったが、是永という緩衝材がいなくなって、直接岡島とやりとりするようになると、彼女の言い分もつくづく理解できるようになった。

 是永とは、《この素晴らしき世界》の一件以来、没交渉になっていたが、最近になって退社の挨拶が一斉メールで届き、蒔野は、この企画の成立のために、彼女がどんなに骨を折ったかを今更慮った。

 グローブは、蒔野の要望を容れて、岡島を担当から外し、野田という名の三十代の青年を新たに紹介した。

 ピンクのワイシャツに、ワックスで固めた八十年代風の髪と鼈甲の眼鏡という風貌が、初対面の時には少し嫌味に感じられたが、話しぶりは明快で好感が持てた。

 野田は元々、音楽配信事業部の所属で、今度のジュピターの買収を機に、クラシック部門に異動になったらしい。

 あまりクラシックもギターも詳しくないと、自分で言うところは不安だったが、会社からは優秀だと見込まれて、この不採算部門を何とかしろと発破を掛けられているのだという。工学部の情報工学科出だという変わり種で、一方で哲学や社会学に興味があるそうで、自己紹介がてらにメディア論だの何だのの話をしていたかと思うと、いつの間にか、本題に入っていた。

 色々込み入ったことを言っていたが、野田が考えているのは、こういうことらしかった。

 芸術の価値は、カントの定義以来、〈美しいbeautiful〉か〈崇高sublime〉かのいずれかだったが、二十世紀後半以降、取り分け顕著に現代のネット社会では、それがそのまま、〈カッコイイcool〉か〈スゴイawsome〉かになっている。これは、世界的な現象で、現代アートの中でも人気があるのは、やはり、ゲルハルト・リヒターのような〈カッコイイ〉作品か、アンドレアス・グルスキーのような〈スゴイ〉作品だが、クラシックは、その評価基準から取り残されてしまっている。そこにアクセスしない限り未来はなく、せっかく素晴らしい作品を発表しても、世間からは認知されない、と。

 蒔野は、耳の痛い話に何度か苦笑したが、隣で聴いていた三谷は顔を顰めて、

「だけど、蒔野さんの音楽は、美しいでしょう? かっこいいとかすごいとか、そういうのは浅い話じゃないですか? 音楽に感動するって、そういうことじゃないと思うんですけど。」

 と反論した。野田は動じずに首を振った。

「それは、順番の問題です。もちろん、蒔野さんの音楽は美しいですよ。僕が言ってるのは、最初に何を感じるのか、その入口の話です。〈カッコイイ〉も〈スゴイ〉もなければ、その先の〈美しい〉にも辿(たど)り着けないですから、今の人たちは。」

 「わたしは、蒔野さんの音楽を、そういう一過性の、わー、かっこいいみたいな消費の場に巻き込んでもしょうがないと思うんです。だって、その人たち、結局、コンサートにも来ないし、CDも買わないですよ。」

「そこを繋ぐのが、僕たちの仕事じゃないですか? もちろん、大半は、わー、かっこいい、とか、えー、すごい、で終わりだと思いますよ。でも、そのうちの何割かでも、蒔野さんのファンになってくれればっていう話ですよ。普通に生活している人は、蒔野さんの創造する美の世界からは、あまりにも遠いですから。—僕は、クラシック・ファンじゃなかったから、正直、この部署に来るまでは、やっていけるかなって自信がなかったんです。でも、勉強のつもりで色々聴いてて、アルゲリッチのプロコフィエフのピアノ協奏曲とかって、なんか、やっぱりすごい世界だなって思ったんですよ。カルロス・クライバーのドキュメンタリーとか見て、かっこいいなぁ、とか。そういうきっかけが必要だっていう話です。」

「それだったら、テレビとか出てもらって、これまでもやってきてます。」

「だから、その延長ですよ。ただ、ネットを使って、もっとインタラクティヴなコミュニティを作れないかと思ってます。」

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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