第六章 消失点(10)

是永から三谷の話を聞いた洋子は、はじめて嫉妬という感情を抱く。蒔野に日本で再会する予定が近づく中、蒔野の所属事務所にも変化があり……。

 洋子は、是永のいかにも悪気のない憶測を、あれ以来気に掛けていた。一旦芽吹くと、洋子の中には、夏休みの朝顔のように三谷の存在が幾つもの鮮やかな花を咲かせ、感情の隙間にその蔓を絡ませていった。

 一つ一つの花は、決して長くは保たなかったが、蕾の数はなかなか減らず、どうやらこの夏いっぱいは、続きそうだった。蒔野に会うまでは。—もし彼がすぐ側にいたなら、恐らくは本葉が出たくらいの頃に気がついて、怪訝そうな顔で、洋子の心の中からそれを引き抜いてしまっていたはずだった。洋子の心を乱していたのは、茫漠とした一万キロ弱に及ぶ東京とパリとの隔たりではなく、一ミリと違わず正確に、彼の肌から彼女の肌までの距離だった。

 ただ三谷だけが蒔野に寄り添い、その音楽活動の支えになっているその時に、自分の抱える問題が、蒔野の心を一層乱してしまうということが、どれほど深く洋子を傷つけるか、ジャリーラは知らなかった。そして、洋子の中の普段は穏やかな矜恃は、その一点に於いて今は痛々しく冴えて、ジャリーラは知る必要がないことなのだと思わせていた。

 必ずしも、蒔野が三谷に何か特別な感情を抱いていると、疑うのではなかった。

 それは、あまりに馬鹿げた想像だった。しかし、そうでなくとも、自分のせいで動揺する蒔野を、傍らで三谷が慰めるという想像には耐え難いものがあった。

 加えて洋子は、自分の体調の悪化には、リチャードとの婚約解消の失敗も影響していると思っていた。だとすれば猶更、この問題は、蒔野に累を及ぼすことなく、自分独りで解決すべきだった。

 もちろん、リチャードとの婚約破棄は、彼女だけの意志ではなく、そもそもは蒔野こそが、強く求めたことだった。しかし洋子は、彼女自身の気持ちとして、蒔野との新しい生活に、どうしてもリチャードの存在を持ち込みたくなかった。蒔野は無論、リチャードのことを知っている。しかし、それは抽象的な元婚約者としてでしかなく、彼の行動を説明し、その性格や考え方を蒔野に具体的に理解してもらう必要はなかった。

 蒔野の心の中に、今更リチャードという一人の人間を住まわせる意味はなく、蒔野自身もそれを望まない風であることは察せられていた。黙っていようと思っていた。しかし、それ故に、彼が、その愛を以て、戦地で傷ついた恋人の心を慰めているつもりで、その実、恋敵の未練にかかずらう動揺まで面倒を看させられていた、というのは、何か、彼の誠実さに対する甘えた欺瞞であるように感じられた。

 一週間という滞在期間であれば、自分はきっと、平穏に過ごせるはずだと、洋子は努めて信じようとしていた。蒔野と再会し、そこで将来の約束をし、ただ彼の側にいられるというその幸福の只中で、どうしてイラクでの悪夢の発作に悩まされることなどあるだろうか。

 何もかもを忘れて、まっさらになりたかった。彼がいて、自分がいるというだけの実感の中で、もうこれまでの人生を生きなくてもいいと信じられるなら、自然に楽になれるという気がした。それもまた、彼女にとっては思いがけない感情の発見だった。それほどまでに、重荷と感じられる人生だっただろうか? わからなかった。しかし、少なくとも、バグダッドに残って、今もまだ取材を続けている自分の幻影は、もう仕事は終わっていることを知って、ようやく帰国の途に就くことが出来るのではあるまいか。……

 蒔野は、八月に入って参加した国内のギター・フェスティヴァルで、再び楽譜が飛んでしまうという失態に見舞われたが、今度は止まらずにごまかしたので、多くはそれに気づかなかった。しかし、演奏は、全体に上ずって性急で、いつものあの輪郭の冴えた精緻な構築物のような音楽を知っている者たちは、まるで誰か別の人間が弾いているような感じがした。不調であっても技術的には高度なだけに、却って指だけよく回る表面的な演奏に聞こえた。

 決して大きなコンサートではなく、ヴァイオリンとのデュオのあとに四曲ソロを弾くだけの舞台だったが、蒔野はいつになく緊張して、楽屋を出たり入ったりしていた。

 元々、静かに舞台を迎えられる質だったので、動揺を鎮めるために、付け焼き刃のやり方で、自己暗示の言葉を反復してみたり、トイレの鏡の前で笑顔を作ってみたりした。

 呼吸を意識し、楽曲を冒頭から辿ってゆこうとするものの、わかりきっている箇所は焦燥が次々に飛ばしてしまう。断片的に難所の指の動きを確認したが、むしろ思いがけない空白は、その前後の継ぎ目にこそ潜んでいそうで、頭の中で、後戻りしたり、先走ったりを繰り返した。

 長い演奏生活の中では、好不調の波とのつきあい方自体も一種の技術のはずだった。しっくり来ないような演奏も、必ずしも珍しいわけではなかったが、蒔野は、その対処の仕方をすっかり忘れてしまったかのような自分に戸惑っていた。不用意に深刻に思いつめてしまい、大して過密スケジュールでもないのに、ほんの数カ月で、二度も楽譜が飛んでしまうというのは異常だった。


 洋子との新しい生活に寄せる蒔野の期待は、漠然とはしていたものの、以前より大きくなっていた。

 彼女の前では、せめて憂鬱な表情を見せたくなかったが、その心配の必要もなく、パソコンのモニター越しに向かい合うと、彼はふしぎなほど自然に笑顔になった。

 蒔野は、彼女と一緒に、ジャリーラのためにギターを弾いた時の心境を思い出そうとしていた。あの調子でそのまま舞台に上がれるわけではなかったが、しかし、このところ仕事が上手くいかずに、ずっとギクシャクしていた楽器と、あの時は久しぶりに楽しく会話が出来たと彼は感じていた。ギターそのものが、生死の境を辛うじて潜り抜けてきた少女のために、親身な歌を歌っていた。何のために音楽を創造するのかという問いを、あの時は束の間、忘れていることが出来た。

 洋子との再会までに、蒔野は少しでも気分を変えたくて、雑然と停滞していた仕事の整理に手を着けた。

 パリからの帰国後、彼は三谷を通じて、新しいレコード会社のグローブと連絡を取っていたが、担当者の人事を巡って混乱が生じ、すぐにレコードを出す予定もない蒔野の話は、しばらく脇に置かれていたような格好だった。

 蒔野の担当には、予期していた通り、元ジュピター・レコードの岡島がつく予定だったが、蒔野は三谷を介してそれに難色を示した。

 不景気な業界だけに、方々で色んな噂が飛び交っており、蒔野も半信半疑だったが、岡島は、ジュピターが買収される際に、所属音楽家たちの整理と取りまとめを行う代わりに、グローブでのポストを約束されたという話だった。実際、蒔野との面会のようなことを、彼はあちこちでやっていたらしいが、いずれにせよ、彼はどうしても、新天地で岡島と一緒に仕事をする気にはなれなかった。

 岡島は、確かにこの業界のことをよく知っていたが、それがほとんど唯一の自尊心の拠りどころだったので、昨今のCDの売り上げ不振に溜息を吐き、現代人の芸術的感性の劣化を嘆いて、「新しい試み」の必要を熱心に説きつつも、実際に部下の是永などが具体的な提案をする時には、癇に障ったように早口で捲し立てて、「そんなこと、出来るわけがない。」と冷笑する悪い癖があった。

 是永のやるせない分析によれば、岡島は、「そんなこと」に今まで自分が気づかなかったと思われるのが何より腹立たしく、当然、気づいてはいて、しかしやらなかったのは、相応の理由があるからだと弁明せずにはいられない、典型的な「バブルさん」なのだ、とのことだった。

 蒔野は、そんな上司と部下との鍔迫り合いに巻き込まれるのはご免だったので、大体、笑い話のように聞き流すのが常だったが、是永という緩衝材がいなくなって、直接岡島とやりとりするようになると、彼女の言い分もつくづく理解できるようになった。

 是永とは、《この素晴らしき世界》の一件以来、没交渉になっていたが、最近になって退社の挨拶が一斉メールで届き、蒔野は、この企画の成立のために、彼女がどんなに骨を折ったかを今更慮った。

 グローブは、蒔野の要望を容れて、岡島を担当から外し、野田という名の三十代の青年を新たに紹介した。

 ピンクのワイシャツに、ワックスで固めた八十年代風の髪と鼈甲の眼鏡という風貌が、初対面の時には少し嫌味に感じられたが、話しぶりは明快で好感が持てた。

 野田は元々、音楽配信事業部の所属で、今度のジュピターの買収を機に、クラシック部門に異動になったらしい。

(つづく)

平野啓一郎・著 石井正信・画


noteの平野啓一郎さんのページでは、cakesより一週間早く『マチネの終わりに』を掲載!
その他にも、若手クリエーター9名による小説に関する作品発表や、ユーザーからの
投稿作品の募集を実施していきます!

コルク

この連載について

初回を読む
マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません