第六章 消失点(9)

マネージャー三谷が是枝に伝えた人生の主役と名脇役の話を聞いた洋子。三谷が洋子のことも話していたことを聞き...。

 彼女は、蒔野さんが主演を務める人生に、ずっと、すごく重要な脇役としてキャスティングされ続けるなら、自分の人生はきっと充実したものになるって言うの。考えただけでも胸が躍る。だから、蒔野さんのためなら何だってできるって。—面喰らっちゃった、わたし。」

「そういう考え方って、……あるのね。ドキッとさせられるわね、ちょっと。」

「洋子のことも言ってた。」

「わたしのこと?」

「例としてね。女だからそう思うわけじゃない。洋子さんみたいな人は、自分の人生の中で、十分主役として輝けるんでしょうけど、わたしはそうじゃないって。彼女の自己評価はともかく、洋子は確かにそうねって同意しておいた。」

「まさか。単館上映で二週間で打ち切られるような映画ね、きっと。」

「そんなことないわよ。わたし、PRする自信あるから!—なんか、でも、わたしその話を彼女としてから、考え込んじゃって。自分もやっぱり、主役向きじゃなくて、脇役向きだなーとか。でも、彼女みたいに誰か一人の人生の助演女優賞を目指すっていうタイプでもないし、色んな人が主役の人生の中で、ちょっと味のある脇役を務められれば十分かなって。そういうのも、案外、楽しそう。」

「引っ張り凧よ、あなたなら。」

「洋子の人生になら、ノーギャラでも出演するからわたし。いつでも呼んで。蒔野さんの主演作からは、残念ながら降板しちゃったけどね。……」

 是永だけでなく、洋子もまた、三谷のその人生観のことが、しばらく頭から離れなかった。そして、彼女が蒔野の主演作では、欠かすことの出来ない登場人物であるということも。

 洋子は最初、是永が自分と蒔野との関係について何も知らないまま、蒔野のパートナーとして三谷の名前を挙げるのを、少しおかしいような、後ろめたいような気持ちで聞いていた。あとで真相を打ち明ければ、「えー、どうしてもっと早く教えてくれなかったの!?」と呆れられるに決まっていた。

 しかし、話を聞き進めていくうちに、段々と、何も知らないのは自分の方ではないかという気がしてきた。

 自分は一体、蒔野のために何が出来るのだろうか? 自分の彼への愛の 実質 、、 とは何なのだろうか、と。

 演奏活動について、それとなく尋ねてみても、蒔野はただ平気そうに、「うん、まァ、いつも通り。」と答えるだけだった。そして、その語られなかった苦悩を、どこか仄めかしているかのように、何度となく、スカイプを通じてのこの会話に、自分がどれほど大きな幸福を感じているかを語った。

 洋子はその度に、彼の存在を、彼女自身がまだ知らなかった心の深い奥底で感じ、喜びに浸った。そして、これほどの愛に満たされていながら、イラクでの体験から逃れられない自分が悔しかった。

 彼の中で、何もかもを捨て去って、ただ安らぎを得たい気持ちと、自分こそが彼の安らぎでありたいという気持ちとが、鬩ぎ合っていた。—しかしその二つは、そんなに矛盾することなのだろうか? 側にいられさえすれば、二人はただ、互いのぬくもりの中で、言葉もなく、両ながらにその役割を果たせていたはずではなかったか?

 洋子は初めて、三谷という女性に嫉妬を感じた。

 蒔野を主人公とするその人生の中では、自分もまた、確かに配役を与えられているはずだった。ところで、その監督はどこにいるのだろうか?

 洋子はふと、自分だけは、他のみんなが持っている脚本とは、違うものを手渡されているような不安を感じた。そして、慌ててページを確かめるように、現在を見つめ直し、過去を振り返り、八月末の彼との再会の場面を、何も間違っていないはずだと自らに言い聞かせながら思い描いた。

     *

 蒔野は、洋子と休暇の計画を話し合って、最初の三日間は東京でゆっくり過ごし、そのあと、一緒に彼女の実家のある長崎を訪れることにした。

 洋子の日本滞在は、僅かに一週間の予定で、蒔野はそれをやはり、短いと感じたが、ジャリーラを独り残して、あまり長くパリを空けるのは心配だという彼女の考えは理解できた。彼が愛しているのは、まさしくそういう洋子だったが、休暇自体は二週間取っているらしく、パリに戻ってからの残りの一週間を、どんなふうに過ごすのだろうかと思うと、その傍らにいられないことをもどかしく感じた。

 洋子自身も、短いとは感じていた。

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