電車は伊豆急行の終点の下田駅に到着した。
平日の下田は、観光客も疎らだった。江戸時代末期、アメリカのペリー提督率いる黒船の艦隊が日本に来航した。そして、水深が十分にあった下田の入江が、外国船が入ることができる最初の開港場に指定されたのだ。当時、最も国際的だった下田は、いまでは寂れた観光地になっていた。僕は下田駅のすぐ近くにあるロープウェイに乗り寝姿山自然公園に登った。展望台から下田港を見下ろした。伊豆七島が見渡せる絶景だったが、ひとりで見ていても虚しいだけだった。
それから駅の近くの食堂に入り、キンメの煮付け定食を食べた。午後は西伊豆の堂ヶ島に行く予定だ。平日のホテルはとても安く、一番安いシングルルームをインターネットで予約しておいた。
下田駅のバス停に着くと、出発まで20分もあったが、すでにバスは停まっていた。
入り口で整理券を取り、一番後ろの席に座った。
しばらくすると、高齢の夫婦が入ってきて、前のほうの席に座った。次は、4人組の観光客が乗ってきた。彼らが話している言葉から、中国人のグループだとわかった。それから、スキニージーンズに、上品なキャメルのハーフコートを合わせた若い女の子がひとりバスに乗ってきた。彼女は、僕の右斜め前のほうの椅子にひとりで座って、膝の上にカバンを置いた。
バスが走り出すと、彼女はカバンの中からスマートフォンを取り出して何かを読みはじめた。老夫婦は景色を見るでもなく、会話するでもなく、ただ静かに座っていた。中国人の4人組は日本のお菓子を食べながら、それらについて議論しているようだった。
僕は後ろの席から、乗客たちを観察したり、外の景色を眺めたりした。下田の市街地を抜けると、建物はまばらになった。バスが峠を上って行くと、眺望が開けた。山と山の間に田畑が広がり、瓦の屋根の家がところどころに建っている。どこかジブリ映画に出てきそうな、古い日本の農村のような光景だ。
ゴトン、と音がして何やら中国人のグループが騒いでいる。
ジュースを落としてしまったようだ。オレンジ色の液体が、僕の斜め前に座っていた女の子の席まで流れてきた。
中国人の観光客は、たどたどしい日本語で「ゴメンナサイ」と謝っている。
女の子は「大丈夫です」と言った。
それから彼女は席を立って、僕にすこし目配せしたあと後に、僕と同じ一番後ろの席の端っこに座った。僕との間に3人分の席が空いている。彼女はそこにカバンを置いた。
彼女の横顔を僕はチラッと見た。どこかで会ったことがあるかもしれない、と思った。それは決して有り得ない話ではない。僕はこの1年ちょっとの間に軽く1000人を超える女に話しかけていたのだ。
もう一度、彼女の顔を見た。二重のきれいな目をしていた。白い肌で、ちょうどよい高さの鼻に、瑞々しいピンク色の唇をしていた。そして、僕がまだ非モテだったときに、人知れず恋心を抱いていたひとりの女の子にとてもよく似ていることに気がついた。
なんとか話しかけなくては……。
ここで話しかけて、気まずい雰囲気になるのも悪くない。いっそ吹っ切れるというものだ。
もう僕には失うものなど何もなかった。
彼女と一瞬だけ目が合ったとき、僕は勇気を出して話しかけた。
「最近は、日本の観光地は、中国の人が多いですよね」
「あ、はい……。そうですね」
急に話しかけられてすこし驚いたようだったが、僕を見て笑顔を見せてくれた。
とりあえずバスの中で会話のオープンに成功した。
僕の恋愛工学はまだ完全には死んだわけではないようだ。
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