私が異動……美沙は自席に戻るも、まったく仕事に集中などできるはずもなかった。「営業成績が悪いから……」越野の言葉に、自分は「事務職が主であるのに。あくまで営業は兼務であるはずなのに……」という思いがどうしてもぬぐえなかった。だから「なんで私が?」という疑問もどうしてもぬぐえない。かといって、現状、男性陣で一番成績の悪い上杉がリストラされるのも望むところではなかった。
実際、上杉がリストラされたら、奥さんが悲しむだろう。同性であるぶん、その気持ちが痛いほどわかった。かといって、背負うものがない自分が、DNSの業績悪化の責任を背負うべきなのだろうか。
しかし、やっぱり、子会社には行きたくない。越野は言った。「シリコンシステムの派遣社員を一人切るので、そこに行ってもらうことになるでしょう」シリコンシステムは小田急線上、愛甲石田という駅にあった。聞いたこともない駅名。路線をググると押上の美沙の自宅から2時間は要した。無理。
そして実は、それ以上に美沙の中で引っかかることがあった。肩書き。『大日本精密の浅井美沙』から『シリコンシステムの浅井美沙』になってしまうことが単純にイヤだった。入社して7年。丸の内の上場企業で働くことが、あたり前だと思っていた。感謝をすることなんてなかった。自ら辞めてやろうとも思っていた。それなのに……今はこんなにも大日本精密を離れたくないと思っている。その気持ちが自身の虚栄心から来るものなのか、天職を見出した(DNSの仕事にやりがいをみつけた)ということなのか、今の美沙は自分でもわからなかった。
ただはっきりとしていることは、今はとにかく、異動も退職もしたくない。とりあえず異動が決定される3ヵ月後までの間、どうしようというのが、美沙の心の第1課題だ。今はあらためて転職活動をする気にもなれなかった。
*
翌日。始業時間の1時間前にはオフィスに到着している美沙だが、今日からさらに30分早く出勤することにした。子会社に行くことになったらもっと早く自宅を出なければならない。そう言い聞かせて自分を奮起させる。
気付かないうちにあたり前になっていた現状があたり前でなくなる恐怖と不安は、今の美沙を突き動かすには十分すぎる力があった。今は目の前の仕事を頑張るしかない。それが悩みに対して美沙が出した答えだった。
始業時間の9時にはすべてのメールチェックを終え、自身の未決箱(営業陣は美沙に依頼する書類を美沙の未決箱に入れる)の仕事をすべて終えた。そして始業時間から30分後、営業陣に急ぎの業務がないか確認をする。特に急ぎの仕事はなさそうだ。いまはリストラされる云々は、頭の外に追いやって目の前の仕事に注力することに決めた。
「いってきます」
美沙が営業として外に出ることをあまりよく思っていない越野の睨めるような視線を感じながらも、美沙は足早にオフィスを後にした。
そんな毎日はあっという間に過ぎ去り、一週間が経過した。
「ただいま戻りました」
夕方6時。憔悴しきった美沙がオフィスに戻ると、誰も席にはいなかった。ホワイトボードに目をやると、全員外出となっていた。「はぁ」美沙はわざと声を出して大きくため息をついた。もうイヤ。どうしていいのかわからない。毎日毎日、坂井の言葉にすがるように、とにかく足繁く客先訪問をしているが、まったく受注の気配はない。結果をだせなければ意味がないのに……。ねぇ、誰か教えてよ。結果ってどうやったら出せるの? 受注という目標を掲げ毎日そのことしか考えていないのに成果が出ない。そんな現状に胸が苦しくなる。気づいたら美沙の目から大粒の涙がこぼれていた。一度流出してしまったら、もう止められない。ボロボロと涙がこぼれていく。隣の部署にはまだ人がいる。嗚咽しそうになるのを必死に抑えるも、美沙は流れる涙を抑えることができなかった。
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