第六章 消失点(8)

医師との対話の中で、蒔野に言われたセリフを思い出す。日本で蒔野に会う約束をする洋子だが、不安は拭えず……。

 洋子はその日、一番穏やかな表情になって、

「わたしが今、一番好きな人が、教えてくれた言葉なんです。」

 と言った。

 洋子は、蒔野のことを考えない日はなかった。寝付かれない夜には、彼と抱擁を交わしたソファに身を横たえて、ただ彼のことだけを考えることにした。そして、たった一年前の、彼と出会う以前の自分をふしぎな心地で振り返った。

 十一月のあの日、少し前に知り合ったばかりのレコード会社の是永に、蒔野のコンサートに誘われなかったなら、自分は今もまだ、あの 彼を愛さなかった小峰洋子 、、、、、、、、、、、、 という人間を生きているはずだった。そして、彼のマドリード滞在中に、リチャードと別れる決断を下していなかったならば、今は恐らく、 彼との愛を断念した自分 、、、、、、、、、、、 を生きていたはずだった。

 洋子は自分が、出口が幾つもある迷宮の中を彷徨っているような感じがした。そして、誤った道は必ず行き止まり、正しい道へと引き返さざるを得ない迷宮よりも、むしろ、どの道を選ぼうとも行き止まりはなく、それはそれとして異なる出口が準備されている迷宮の方が、遥かに残酷なのだと思った。

 ただ、蒔野の愛の中で、今の自分をなくしてしまいたいという欲求の一方で、その愛のためには、自分自身を維持しなければならないという義務感を抱き、その矛盾した思いに、洋子は次第に引き裂かれていった。

 医師からは、PTSDの症状が治まるのには、早くても一年ほどかかるだろうと告げられていた。決して焦ってはならず、それは、必要な時間として受け容れなければならない、と。しかし、何事もなく、パリでの日常生活に着地できたように感じていた洋子にとって、そのショックは大きかった。

 医師に尋ねて、PTSDについての一般書、専門書を数冊読み始めたが、イラクで度々耳にした「制御不能uncontrollable」という言葉が度々脳裏を過った。

 職場での感情的な暴発を、彼女は今のところ抑制できていて、同僚たちは、誰も洋子の異変に気づいていなかった。

 しかし、そういう不安定な状態のまま、蒔野に会うことはできるのだろうか?

 自分にだけは、何か奇跡的な症状の改善が見られて、東京に行くまでには、パリで一晩を過ごした時のような健康な、穏やかなからだに戻ってはいないだろうかと、彼女は祈るようにして毎日考えた。

 再会そのものを先延ばしにすべきだろうか? しかし、いつまで? 早くて一年先などという時間は、それこそ、この愛を壊してしまうだろう。

 彼女自身も、とても待てなかった。一日でも早く、彼に会いたかった。そして、彼の子供がほしいといつしか切実に願うようになっていた彼女は、四十歳という自分の年齢にも焦りを感じた。

 八月の第二週目の或る日、洋子は、レコード会社の是永から久しぶりにメールを受け取った。彼女とは、昨年十一月の蒔野のコンサートの後、フランスに戻る前にもう一度、二人だけで食事をして、一気に親しくなっていた。バグダッド赴任中も、何度か連絡は取っていたが、このところ、しばらく無音が続いていた。

 是永の用件は、夏休みに両親がパリに観光に行くので、どこかオススメのレストランを教えてほしいというものだった。しかし、どうもそちらはついでのようで、実は勤務先のレコード会社の買収に伴って、この夏一杯で退社し、外資のデザイン家電メーカーのPR部署に転職することになった、という報告が付されていた。

 洋子は、その簡素な記述に飽き足らない様子を察して、週末になると、彼女にスカイプで連絡してみた。

 是永は、洋子からの連絡を喜び、二時間近くも楽しく由無し事を語り、メールで触れた転職の顛末を語った。

 音楽業界の苦境というのは、洋子も凡そ理解していたが、具体的なCDのプレス数などを聞くと、想像以上の深刻さに驚いた。

「蒔野さんは、大丈夫なのかしら?」

 洋子は、蒔野との関係を、まだ彼女に話していなかったので、とぼけるように、しかし会話の流れ次第では、もう打ち明けてしまいたい気持ちで言った。

 是永は、蒔野の名前が出たこと自体は、別段、唐突とも感じなかった風だった。が、「うーん、……」と、溜息交じりに声を発すると、

「わたし実は、担当から外れちゃったのよ。」

 と言った。

「そうなの? どうして?」

 是永は、蒔野と《この素晴らしき世界~Beautiful American songs》の件で意見が対立し、会社の判断もあって担当を変わることになった経緯を説明し、自分としては、とても力を入れていた仕事で、蒔野にも最大限気を遣っていたはずなので、とてもショックだった、この業界で自分の出来ることは、もうあまりないのかもしれないと思うようになった一つのきっかけだった、と言った。

 洋子は、是永に同情しつつも、蒔野のその話はまったく知らなかったので、

「彼は、仕事相手として難しい人?」

 と、自分たちの関係を言い出しそびれたまま、語を継いでしまった。

「ううん。アーティストの中ではやりやすい方よ。常識的だし、洋子が会った時みたいに、普段は気さくだし、繊細な心遣いもあるしね。蒔野さんと衝突したことなんて、一度もなかったから、余計にショックだった。」

「どうしてなのかしら?」

「そうね、……こんなこと、言っていいのかどうかわからないけど、蒔野さん、多分ちょっとスランプなのよね、今。音楽家として苦しんでるみたい。人には言わないけど、最近、噂になってる。」

「……。」

「六月にパリでリサイタルをやった時に、演奏がストップしてしまったらしいのよね。会場で聴いてた知り合いがいて、その時は、手を心配してたらしくて。……半信半疑だったんだけど、つい一昨日の東京の音楽イヴェントでも、蒔野さん、二十分の持ち時間で、やっぱり一度、演奏が止まってしまったのよ。それは、わたしも聴いてて、手っていうより、楽譜が飛んじゃったみたい。そういうことって、音楽家は時々あるけど、蒔野さんでもそんなことあるんだって、ビックリしちゃった。」

「そう、……」

「どっちも最近の話だけど、本人はもっと前からイライラしてるんじゃないかしら。—洋子は連絡は取ってないの?」

「え、……ああ、……」

「てっきり取ってるのかと思ってた。去年のコンサートのあと、蒔野さん、洋子に会えたこと、ものすごく喜んでたから。色んなところで洋子の話してた。」

「あなたが、手が早いなんて言うから気をつけてたのよ。」

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平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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