性快楽からの疎外による悲劇、とその希望—『二十歳の原点』の謎[四]

1969年6月24日に20歳で鉄道自殺をした高野悦子さんの日記『二十歳の原点』は、当時、三部作として発売され、約350万部のベストセラーとなり、日本人の古典となりました。 健やかな精神と肉体を持ち、ひたむきに生きた女性がなぜ死んだのか。彼女を死に追いやったものはなんなのか。最終回は、激情ともいえる性と死への渇望をたどりながら、彼女の悲劇の本質を探ります。最後にfinalventさんが見出した彼女の姿とは。

 高野悦子の性の問題は時代と絡み合って、『二十歳の原点』の重要な要素である。若者らしい繊細な心情、特に若い女性の普遍的な心情、さらに詩的な感受性のある人間の普遍性を基礎とした魅力を持ちながら、それとからまりあうように性の強い揺らぎがもう一極の魅力になっている。

自慰の才能

 高野悦子はオナニストである。そう言っていいのかためらう。というのは、人は誰でもそういう時期を過ぎるだけかもしれないからだ。だがオナニストというのは、性の対象を詩的な言語や絵画的な妄想で満たすものである。妄想が現実であることを拒否するという妄想性の矛盾したあり方において、一つの才能でもある。
 そもそも日記文学とは自慰の一つの矛盾した形態である。しかしただの自慰であるなら、つまりただの妄想であるなら、その快楽を現実に接合するだけである。つまり、現実の自分との対立を罪として意識することなく暢気な妄想に終わる。
 他者の性的倒錯について、私たちの多くが、そこに違和感を禁じえないのは、妄想であるがゆえの罪悪感を、他者が抱いているかわからないためである。つまり、他者の性的な妄想を理解はできても、そこになにか自意識のありかたとして欠陥があるような不審を抱くからだ。

 自慰についての記述は同じく『二十歳の原点序章』の1968年9月28日に何気なく現れる。

 寺山修司の『街に戦場あり』を読みながら自慰にふけったりした。刺激物をよむと興奮してついやりたくなるのだが、そのあとは罪悪感を感じるだけだ。

 とても素直な表現だが、それが習慣的な行為であることも示している。彼女はずっと性的な刺激物を求め、それをもとに自慰にふけっていた。そうした情感の刺激物はこの寺山修司の『街に戦場あり』に暗示されているように、政治的な色合いも伴っていただろう。そしてここからわかるもう一つのことは、〈そのあとは罪悪感〉は彼女の日記記述の大半の裏側に存在したことだ。むしろ、彼女の日記の奇妙なエロス性はそうしたオナニストの感性に起源をもっている。

激情の性と死が結びつく衝撃

 処女喪失後の文脈として『二十歳の原点』に戻る。経済的にも自立した個人たらんとしてはじめたアルバイト先(京都国際観光ホテル)の年上の男「鈴木」に高野はしだいに性的な好意を持つようになる。1969年4月22日はこう率直に性交の幻想を記している。それは、かつての「小林」との関係の幻想を克服したかのような牧歌性がある。

 毎日鈴木のことばかり考えている。鈴木と唇をあわせたり力強くだきあったり、やさしく胸(このちっちゃな)をさわったり、私は鈴木のやせた体やくちびるを愛撫したり、シンボルであるオチンチンを子供の遊びのように手でさわってみたり、常に鈴木と肉体の関係をもちたいと願っている。鈴木が最初に私の頭に手をのせてくれたのはいつだったろうか。(後略)

 それは過渡的でもある。こう続く。なお作品中の"have"は"hate"の誤記だろう。

 人間は醜い。ずっと前、横田君がいっていた。"I have my mother very much." 翌晩、私は思った。"My mother is ugly, my father is ugly"
 彼らは動物的な肉体関係をもっているのに、そんなものとは遠く離れた世界の中に生きているふりをしている。その父と母から、性交によって生れてきた私。キリストのいう原罪。そして私自身も醜い。鈴木との肉体関係をのぞむし、くさいくそもすれば、小便もする。メンスのとき血だらけになる。

 この記述は『二十歳の原点』という作品を普遍的な文学に定めたもっとも・・・・美しい・・・部分・・でもある。誰もが大人になる前にいちどはふと思い描く奇妙な光景だが、そこに血や糞といった自身の身体性を関与させて簡素に描きだしているからだ。
 しかし、それだけで終わらない。性の問題はこれだけ文学的に描かれていても、なおよく・・・・わからない・・・・・部分・・がぬっと露出することがある。高野の性の妄想は普遍性と奇妙な特異性が絡み合う。同日にはすでに死を介した性の自慰も試みられている。

 朝ふとんの中でぼやっとする。自分の手で首をしめてみる。手をのどに当ててしばらくすると、ヒイヒイと息をする音がきこえ、もう一寸すると顔が充血する。思わず手をはなす。湯沸器のコードを首にまいて引っぱる。こんなことをして遊んでいる。

 これは自殺の願望や衝動ではない。〈遊んでいる〉とあるように快楽の遊びであり、その後に「鈴木」との性交の幻想が続く。むしろ性的な幻想の一環である。サディズムやマゾヒズム的な傾向と言ってとりあえずラベルを付けることができるだろうが、そうした単純なものではない。性的な倒錯性や嗜好性で済まされるものではないように思われる。

 では何なのか。人間はなぜか死を厭わない献身的な愛の衝動に突き動かされることがあるが、どこかしらその愛の・・・・衝動は・・・性に・・引き起こされる・・・・・・・死の衝動を経由・・・・・・・しているように・・・・・・・思われる。むしろ、性の衝動は愛の献身に至る回路で、自死の欲望を経るのではないだろうか。彼女の陰惨な死のなかに、読者は無意識ではあるが、そうした愛の献身の・・・・・可能性・・・—それによって自己を救済したい—を感受しているのではないだろうか。
 それは高畑勲の『かぐや姫の物語』で姫が月光のタナトスに駆られて疾走していく情念にも似ている。その駆り立てる思いは、いつの時代でも若い人の心を抉るだろう。『二十歳の原点』の魅力は、20歳の普通の若者・若い女性が素直に心情を吐露した文学作品としても読める、が、その激情の性と死が結びつく衝撃も、いつまでも残る妖しい魅力になっているだろう。

必然的に「嘘」の構図をとる言葉と性の意識の関係

 私はここで好ましくないことを思う。高野が「鈴木」と性的な関係を持つことができたら、おそらく幻滅の結末を味わうことになったとして、自殺はしなかったのではないだろうか。

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