世界は耳を澄ましている
長い間、自分と自然とを隔ててきた何重もの防壁を、一つずつとり払っていく。それは勇気のいることだ。きっと自分の弱さや脆さと向き合うことになるから。でも、弱さを知ることで、きみは謙虚になれるだろう。謙虚は、繊細さや感受性の高さに通じる。それは、「強さ」と見なされているものが、しばしば傲慢や鈍感を意味するのと対照的だ。
「弱さ」のパワーとはそういうものなのではないか、とぼくは思う。賢治がそうしたように、ぼくたちも耳を澄ます。するとやはり耳を澄ましている世界が感じられる。
世界はただ見ているだけではない、耳を澄ましてもいる。……(昔ながらの教えによれば)人間以外の存在は、自分たちが殺され、食料として食べられるのを気にしてはいない。だがその際、彼らは、喜びと感謝の言葉が人間の口から聞かれることを期待しており、自分たちが粗末に扱われることをひどく嫌う。
アメリカ人の詩人ゲーリー・スナイダーはここで、ただ単に野生動物と狩猟採集民の関係のことを話しているのではない。どこに住んでいようと、それが一見自然と切り離された都会だったとしても、ぼくたちは誰もみな、生き物を食べることによって自分のいのちを養う生き物であることに変わりない。その意味では、ぼくも、きみも、一種の“野生”なのだ。
大自然を求めて遠くに出かけていく必要はない。ぼくたちはどこにいても、否応なしに自然界とつながっているのだし、そもそも自分の身体そのものが、大自然なのだ。石器時代の昔から、人間の身体機能は基本的に同じだ。他の哺乳類と同様に、物音に思わず振り向いたり、高所で目まいがしたり、興奮すると動悸がしたり……。野生がちゃんとここにある証拠だ。
スナイダーによれば、現代人はその野生を無視したり、下に見たり、敵視したりすることで、自由になるどころか、逆に大いなる不自由を抱え込んできたのだ。一方、人間たちからひどい仕打ちを受けても、野生はとても我慢強く、寛容だ。
野生が我々に求めているのは、土地について学び、すべての鳥や動植物に黙って挨拶し、流れを渡り、尾根を越え、家に帰って楽しい話をすること。
これって、「求めすぎ」だと、きみは思うだろうか。
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