日本建築論

戦時下の建築論:第8章(1)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。

○国民から人民の建築へ

 批評家の浜口隆一の著作『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社、1947年)は、戦後すぐに刊行され、大きな話題を呼んだ。建築は支配層のためにつくるのではなく、「人民」に捧げるものとし、モダニズムの機能主義がその役割を担うものとしたのが、主な主張である。

 戦時下の「国民」から「人民」へ。実際、1930年代から40年代前半にかけて、建築の分野でも国家意識は強くなり、「国民住宅」の確立などが叫ばれていた。これに対して、浜口の新しい視点は、1950年代の伝統論における民衆への意識を準備するものだろう。彼は「機能主義とヒューマニズム-—文化主義の克服」(1948)の論考でも、自著のテーマを展開し、ヒューマニズムの第一段階がブルジョアのヒューマニズムだとすれば、第二段階は社会主義的な性格をもつと述べている(『市民社会のデザイン』而立書房 、1998年)。そして暗黒の中世からルネサンスの時代に移行したように、「国体護持のために一億玉砕」する戦時下から人間性を解放する戦後になったと考えた。

 浜口の回想によれば、前川国男事務所に出入りしていたとき、前川から評論をやらないかと言われたという(「戦時の評論活動」『建築雑誌』1985年1月号)。すなわち、「前川さんの夢物語としては浜口がおれのギーディオンになってくれればいいという気があった」ようだ。

 ジークフリート・ギーディオンとは、ル・コルビュジエらによるモダニズムの建築運動を理論的に支援した批評家であり歴史家である。彼の主著『空間・時間・建築』(1941)では、空間の三段期の発展を論じ、時空間が連動するモダニズムを最終形と位置づけた。が、日本のギーディオンは戦時下に登場した。もっとも、大きな物語からモダニズムを位置づける枠組は似ていよう。浜口は「歴史の必然」という言い回しを使い、以下のように述べている(「機能主義とヒューマニズム」)。「機能主義は人民のヒューマニズムとしての現代ヒューマニズムの建築の領域における現れに他ならない」。

 1944年に浜口は『新建築』において「日本国民建築様式の問題」を発表し、当時のコンペにおける前川案や丹下健三案を批評したことで注目された。この論文の内容については次回に詳しく触れるとして、今回は戦時下の建築界の状況を振り返ろう。

 当時、大学では、堀口捨己のように国際主義者でロマンティックな建築家と、合理主義的な先生に分かれていたが、浜口は、後者のほうが「ナショナリストなんですよね。いわゆる日本国家に忠実なわけね」という(「戦時の評論活動」『建築雑誌』1985年1月号)。そして彼自身は戦争から「逃げる格好で」、「兵隊に行かないで済むように」北海道に移住した。1945年8月15日の玉音放送は、函館で聞いたらしい。3年滞在した北海道で執筆したのが、『ヒューマニズムの建築』である。前川は北海道に移住した浜口に自分の本作りの手伝いを依頼し、それがきっかけで浜口の主著が刊行されることになった。

 また浜口はこう語っている。「伝統なんていうのはロマンチックにやらないとできないと思っていたようなところがあった。合理的・科学的に考えると伝統のことを否定するみたいになっていわけです」。


○1947年に刊行されたもうひとつの著作

 建築史家の太田博太郎も、1947年に主著となる『日本建築史序説』(彰国社)を刊行した。この本は1939年に着手され、脱稿したのは戦時下である。広く読まれた日本建築の通史だが、モダニズムの美学と共通するまなざしが指摘できるだろう。例えば、「簡素清純な表現」、「無装飾の美」、「非相称性」、「直線的」、「構造のもつ力学的な美しさ」などを評価する視点である。また中国建築との違いを強調しながら、日本建築の特徴を指摘する記述の仕方は、岸田日出刀ほど露骨ではないが、中国らしさの排除によって日本らしさを浮上させる岸田の論法と似ていよう。この本の刊行が敗戦前ならば、文章は異なっていたかもしれない。ともあれ、古代から近代までを一望するギーディオンとは違う。

 西洋におけるモダニズムは過去の否定から出発したのに対し、太田は近代建築には触れていない。またモダニズムと共通した価値観をもつものとして古建築を論じている。とり扱う時代について、彼は批評家の浜口と棲み分けていた。なお、太田は、当時のモダニズムの建築家で親交のあった建築家としては、前川や、1941年、同期で文部省に入った大江宏らを挙げている。後者とは、実現しなかったものの、紀元2600年記念の国史館のプロジェクトを共同で担当したという。

 太田は、1937年9月から39年2月、41年12月から42年7月まで召集されて外地にいた(「近代の背骨」『建築雑誌』1995年8月)。敗戦時は東京にいて首都防衛隊に所属し、月の半分は大学、残り半分は軍服を着ていたという。ゆえに、戦争が終わったとき、「これからは我々の出番ができたという感じ」だった。

 彼は戦時下の大学の様子を、こう述べる。「東大では、まあ戦争に反対って言う人はいないわけだよね。それは国の役人だもん。賛成って言う人だってそんなにいないわけだろ、おそらく。ただ、もう始まっちゃったからにはね。・・・やるより仕様がないと」。そしてこうした状況をいかし、構造学の武藤清は爆弾に耐えるような対弾構造、太田は戦時研究をやれということで、江戸の火事の歴史を調べたらしい。実際、田邊平学も「投下爆弾と日本家屋」の論考において、防空の観点から構造タイプごとに建築を論じていた(『建築雑誌』1937年12月号)。また予定を半年繰り上げて1942年9月に東大を卒業した佐野正一によれば、当時は材料学の浜田による「都市防空」の講義もあったという(「戦中派の建築教育」『建築雑誌』1976年4月号)。


○戦時下の国家と建築について

 戦後に伝統論を仕掛けた編集者の川添登は、1926年生まれであり、戦争で「死ぬとすれば、いったい何のために自分は死ぬのか、考えずにはいられなかった」ときに、ブルーノ・タウトの本を読んだ(「伝統論やメタボリズムの周辺」『建築雑誌』1995年8月号)。「こういう日本の文化のためなら自分も死んでいい」と納得するためだったという。そして丹下の大東亜建設記念造営計画は「神国意識とか国家主義の産物」かもしれないが、おそらくタウトに基づく考えをもち、共感したと述べている。タウトは1930年代に来日し、古建築を賞賛したが、彼の本がこうして受容されたのは興味深い。タウトは桂離宮や伊勢神宮がモダニズムに通じるとみなし、パルテノン神殿と比肩すべき名建築だと論じている。

 1930年代後半、岸田日出刀は1940年に開催を予定していた東京オリンピックに生かすべく、ベルリン・オリンピックを視察している。また建築史の伊東忠太もドイツを訪問した(「新ドイツ文化と日本」『建築雑誌』1939年2月)。彼は新生ドイツについて、ヒトラーという「不世出の英雄」が登場し、「曾て建築工事に関係した経験があるので、國の建設にも特殊な手腕があるものと見へ」、国を建て直したと紹介している。「世界の偉人」は「国際主義と云ふものを一蹴し、国家主義でなければいけないとした」。また「一国一民族」を掲げ、ユダヤを排斥し、建築は「外観よりは内容」、「空論よりは実際」を敢行する。ゆえに、ナチス建築の外観は質素だが、「新ドイツ国の新文化の作物としては、あれが一番手適好の建築と見て差支ないと思ふ」という。

 伊東は淡々とナチス・ドイツの状況を説明しているが、否定的なニュアンスではない。一方、「日本では学者が学説と称して日本の国家国民に寧ろ有害無益と思はれる言説を流布しても、世間では余まりに問題にせず、政府でも、余程酷いのでなければそれを弾圧しない様で、ドイツに比べると著しく寛大の様に思はれる」。まるで国家の介入を望むかのような発言だ。また日本は「大いなる暗示」をドイツに与えたという。なぜなら西欧で日本研究が盛んであり、「物質文化は乏しいけれども、精神文化としては日本が世界の特長を有ている」からだ。

 もっとも、伊東は現地の大学で講演を行なったが、外国人による日本文化の理解は難しいという。例えば、外国人は富士山の造形を褒めるが、日本人は「大自然の偉大なる威力に対して畏敬の念」をもち、「一種の何とも言へない神秘的な霊感を受ける」。また神社や寺院に関心がなく、巨大な姫路城が人気だったらしい。ゆえに、茶室は「恐らくは全然分からないのかも知れぬ」、「石の趣味なんかは殆ど分からない様です」と手厳しい。この謂いには、所詮、外国人には日本を理解できないというナショナリズムがあると指摘できるだろう。

 戦後に国鉄の建築を牽引した伊藤滋は、戦時下に「一人の国民として、一人の建築技術者として」全力で祖国に尽くすために、新しい建築体制が必要とし、その機構を提案した(「新日本に於ける建築の体制」『建築雑誌』1941年4月)。内容は多岐にわたるが、デザインに関しては、設計事務所の集団化を唱えている。また「建築造形をはぢめとする一般芸術文化の伸展と高揚」は、国家から重視されるべきであり、「それは民を養ひ生かす水であり土であると共に、民族意識と愛国精神の紐帯」となり、「国家百年の計」にとって重要だという。建築も国家を意識せざるをえない時代に突入していた。もっとも、実際は戦局が激しくなると、デザインはどうでもよくなり、経済性や効率性が最重視される。

 モダニズムの山田守は、「大東亜建築文化建設を擔當する日本建築家の総合的自覚」という論で、互いに批判したり、議論をする時代は過ぎ、「聖戦によって生じたる今日の日本建築家の使命は何であるか」を問いかける(『建築雑誌』1942年7月号)。彼は「敵性国家建築」に惑わされるな、日本建築の伝統の長所を学び、世界的な新建築文化をつくることを自覚せよという。そして「建築家全体が一身一体となつてやらねばならぬ空前の重大事」であり、「上下共この事業に参画しようではないか」と呼びかける。

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五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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kyonsuk この連載、あとでまとめてじっくり読む。 約5年前 replyretweetfavorite