「外傷と関連した刺激の持続的回避と、全般的反応性の麻痺、というのが、PTSDの本質ですから、そのイラク人の女性の存在が、薄れつつあったバグダッドでの記憶を呼び起こさせて、からだがそれを拒絶しようとしている、という解釈の可能性は否定できません。」
医師は、そこで一呼吸置くと、心配そうな面持ちの洋子に語りかけた。
「一般論というのは、しかし、あまり意味のないことです。大事なのは、
洋子は、何か大事なことを尋ねられた時にはいつもそうであるように、即答せずに、しばらく黙って考えていた。そして、自分の体調のためにも、出来るだけ正直に、偽るところなく胸の裡を説明しようと努めた。
「わたしは彼女を、身内のように愛してます。——それは本心ですが、本心であってほしいとも願ってます、きっと。……地下鉄で、ただこちらを見ていただけのアラブ系の男性に、ほとんどイスラム恐怖症的な反応を示してしまった時、わたしは自分を責める一方で、すぐにジャリーラのことを考えました。違う、そうじゃない、現にわたしはバグダッドから命懸けで逃れてきた一人のイラク人女性の面倒を看ているのだから、と。わたしが差別主義者じゃないことは、他でもなく、彼女が断言してくれるはずだ、と。」
「なるほど。」
「色んな意味で、彼女の存在は、今のわたしの拠りどころなんです。やっぱり、……自分の中の何かが壊れてしまった気がするんです、バグダッドで。パリに戻って来ても、自分は違うんだって思ってしまう。同僚と話していても、ギャップが大きくて。——でも、ジャリーラが来てからは、わかってくれる人がいるっていうだけで、心の支えになってます。彼女がいてくれて、本当によかったと何度思ったことか。実際、わたしのイラク体験なんて、彼女に比べれば、あまりにもささやかで、だからこそ、パリの友人たちとの間にギャップを感じながら、それを強調することもできずにいました。だけどジャリーラは、わたしがあの日、本当に、あと数分長くホテルのロビーにいたら、死んでいたことを知ってるんです。
それは、……だから、彼女はわたしのために泣いてくれましたし、わたしをずっと心配してくれていました。パリの誰かが、『でも、高々、六週間やそこらでしょう? 二回行ったって言っても、合わせてたったの三カ月。兵士として戦闘の最中にいたわけでもなくて、ホテルでじっとしてたんでしょう?』って言ったとしても、ジャリーラはきっと、わたしを庇って弁護してくれます。——もちろん、わたし自身、大したことは出来ないまま、帰国してしまったという意識はあります。その無力感は、誰よりも知ってます。イラクの人たちを残してきた
洋子は、喋りながら、医師がジャリーラとの別居を勧めるのではないだろうかと、次第に不安に駆られていって、彼女が自分を必要としているだけではなく、自分の方こそ彼女を必要としているのだと強調した。しかし、どこか無意識に、精神科医に通じるように話を整理してもいて、共感される内容ではあったが、口調は熱を帯びることなく、全体にモノトーンな印象だった。
「あなたにとって、今彼女が必要なら——しかも、その存在に愛を感じているのなら、一緒に生活することは決して悪いことではありませんよ。ただし、彼女に比べれば、自分はさしたる問題を抱えていないはずだと、苦しみを押さえ込もうとするのはよくないです。あなたは、
洋子は、その言葉にハッとして唇を噛むと、自分が涙ぐみそうになるのに驚いた。そして、大きく息を吐くと、同意するように頷いた。
「そうですね。……弱い立場の人が、どうして自分を責めがちなのか、よくわかった気がします。自尊心のせいなんでしょうか?」
「それもあるでしょう。自尊感情だって、とても大事なものですから。戦争そのものが、最初から人間の耐性の限界を超える経験なのですから、平気で日常に復帰できるとは考えるべきじゃないです。」
「どうして同じ夢を何度も見るのか、……自分なりに本を読んだりして、考えてたんです。あれは一体、何だったのか、その意味を言語化できれば、反復は治まるんじゃないか。決して、あの出来事を思い出させるジャリーラを遠ざけろというメッセージではないはずだ、と。」
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