この世に 桜がなかったならば
春の心は おだやかで
かき乱されることはない
この世に おまえがいなければ
ひとりの夜さえ おだやかで
酒と歌とで 満ち足りた
俺はおまえを 盗み出した
背負って走る 真夜中に
草についた露を見て おまえは言った
「葉の先で光っている、これは真珠?」
あのときの夜露のように
ふたり 消えたら良かったのに
この月は あのときの月ではない
この春は あのときの春ではない
ただ俺だけが あのときのまま
取り残されて
夜露にふれる
ひとつぶ こぼれる
「夜露のように消え失せろ」
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
白玉か何ぞと人の問いし時 露と答えて消えなましものを
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一つはもとの身にして
在原業平(825~880)
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