第六章 消失点(6)

リチャードは洋子に、付き合っていた時と変わらず連絡をする。その頃、洋子は悪夢に襲われることが増え……。

 彼女の心が離れ、一層強く蒔野へと引き寄せられてゆきつつあった頃、リチャードは、今にも形骸化しそうな二人の婚約の実体を、肉体的な結びつきにひたすら求めていた。そういう考えの彼が、実は洋子が、「浮気相手」とまだ、一度も事を遂げていないと知ったならば、それはそもそも「浮気」でさえなく、要するに、 何でもない 、、、、、 のだと狂喜するに違いなかった。

 リチャードとの情交の名残が、まだ生々しいというわけでは必ずしもなかった。ただとにかく、洋子は蒔野との愛に、かつて知らなかったほど 淫ら 、、、 に耽溺したかった。リチャードとの関係には、金輪際、後戻りのしようがないほど徹底して、彼の腕の中で崩れ落ちてしまいたかった。

 客観的に見れば、彼女の婚約の 実績 、、 の求め方は、自分に対するリチャードの渇きを、さながらなぞっているかのようだった。彼女が無意識に縋ろうとしていたのは、そうした秘密裏の残酷さだった。

 パリはこの年、大量の死者を出した二〇〇三年以来の猛暑で、洋子もヴァカンス・シーズンの人手不足から、国会に提出されている新しい移民法の取材の傍ら、医療施設の暑さ対策の取材に駆り出され、私生活では、数カ月来の習慣になっていた朝のジョギングを止めた。前回に懲りて部屋にはクーラーを設置していたものの、つけっぱなしで一晩寝るわけにもいかず、七月に入ってほどなく、彼女は不眠に悩まされるようになった。

 ジャリーラの滞在が、当初考えていたよりも長引いていて、洋子は二百ユーロのソファベッドを購入し、リヴィングで独りで寝るようになった。ジャリーラも、自分が魘されるせいで洋子が目を覚ましてしまうことを気にしていたが、寝室の大きなベッドは遠慮したいと伝えた。

「いいの、リヴィングで夜したいこともあるから。寝相がいいから、ベッドは小さくても平気なのよ。」

 洋子はそう言って笑った。ジャリーラは、洋子が深夜に本を読んだり、仕事をしたり、或いは蒔野とスカイプで喋ったりするのを知っていたので、気が引けながらも、言われた通りにした。

 別の部屋で寝始めてから、洋子もほっとしていた。プライヴァシーを適度に保つことはお互いのためだったが、奇妙なことに、洋子自身が繰り返し同じ悪夢に魘されるようになったのは、丁度この頃からだった。

 見るのは決まって、あのムルジャーナ・ホテルでの自爆テロ前後の光景だった。

 一階のロビーに男たちが入ってくる。現実には、必ずしもはっきり目を合わせたわけではなかったはずだが、夢の中では、間近で睨みつけられることがあり、時にはアラビア語らしき不明瞭な言語で話しかけられることさえあった。

 あの、既にこの世界からの退去手続きを、あらかた済ませてしまった人の目。数分後には、爆発とともに大理石の冷たい床に落ちてしまう目。……

 そこで激しい動悸と共に目が醒めることもあれば、見ていないはずの爆発を目の当たりにすることもあった。

 閉じ込められたエレヴェーターの角に座って、彼女は助けを待っていた。酷く息苦しく、不安で、ドアが開くと、あの時の恐怖が形を成して押し入ってきて、夢の中で彼女を嬲った。

 繰り返し同じ悪夢に苛まれるというのは、時折耳にはするものの、現実にあることなのだと洋子は初めて知った。そして、バグダッドから帰国したあの日、なぜか同じ飛行機に乗らなかった自分が今もまだムルジャーナ・ホテルにいて、赴任期間をとうに終えたことにも気づかないまま、何度もテロに巻き込まれ続けているのを感じた。

 蒔野とのスカイプの会話を楽しんだあと、深夜に明かりを消してベッドに横たわると、またあの夢を見るのだろうかと不安になった。

 パリでも夜中にパトカーのサイレンが鳴り響くことは珍しくなかったが、そういう時には、あのバグダッドの夜の生の気配が完全に失われた静寂が不意に耳の奥で広がった。

 見たい夢を自由に見られない一方で、見たくない夢を見ない自由も人間にはないことを洋子は知った。

 日中は、どんな活動も許されていた。しかし、夜になるとまた、彼女だけが、会社の同僚や友人たちとは引き離されて、あの死の世界へと連れ戻されてしまうのだった。

 猛暑で疲労が募っているのに加えて、寝不足のせいか偏頭痛がして、仕事をしていても集中力を欠いた。倦怠感があり、どこにいても、現実が、自分からは少し遠くに感じられた。腕を伸ばせば伸ばした分、歩き出せば歩いた分だけ、世界は彼女から遠ざかった。

 夢の容量が飽和してしまったのか、洋子はやがて、昼の日中に、何度か鮮烈なフラッシュバックを経験した。

 最初は、地下鉄の四番線に乗って、シャトー・ルージュに取材に向かう途中だった。

 この日も朝から気温は三十八度にまで上昇し、乗り込んでくる乗客たちは、ハンカチやタオルを手に、頭から噴き出す汗を紅潮した頬や首筋で押さえ、胸元に湿って貼りついたTシャツを引っ張って、風を通したりしていた。

 パリは人が出払っていて、観光客も少なく、空っぽになった街は、その分、降り注ぐ太陽の光に占拠されていた。地下鉄の薄暗い階段を降りると、先ほど歩いていた時には気にも掛けなかった噴水の眩しい煌めきが、意外に濃い残像となって視界に斑な影を落とした。

 洋子は、ドアの側の折り畳みの椅子に座って、仕事の資料を読んでいた。

 車内は汗臭く、クーラーの効きが悪いので、後ろの方で窓を開けている人がいるようだった。地下の闇にレールの軋む音が轟き、対向車両と擦れ違う際には、軽い衝撃が人々の肩を揺すった。観光客がいなくなり、ストラスブール・サンドニで、パリの北の方に住む人たちがパラパラと乗ってきた。

 洋子は、ドアが閉まってしばらくしてから、自分が誰かから見られているという気配を感じた。顔を上げると、向かいのアラブ系の若い男が、彼女に意味ありげな眼差しを送っていた。

 そこに一瞬、あの目が—洋子の記憶の中で、永遠に死の寸前で張りつめている、あの自爆テロ犯の目が—ちらと覗いて、すぐに眸の奥に隠れた。

 洋子は、手の震えを隠しながら、資料をバッグの中にしまうと、ゆっくり立ち上がってドアに身を寄せた。車内アナウンスが、次のシャトー・ドー駅を告げている。ドアのボタンを押した。開かない。彼女は、漆黒の車窓の奥に閉じ込められた、自分自身の姿を目にした。

 夢の中に閉じ込められたままの彼女は、そこで、ムルジャーナ・ホテルのエレヴェーターのドアを開けようと、必死でボタンを押し続けていた。

 ドアは開かなかった。パニックに陥ったような洋子を、周囲の乗客は異様な目で見ていた。ようやく電車がホームに入ると、完全に停止する前にドアが開いて、駆け出すように降り、ベンチに座って気分が落ち着くまで待った。顔を覆う手の震えが止まらなかった。ドアが閉まって出発する電車を、彼女は見ることが出来なかった。

 きっかけが、一人のアラブ系男性だったことにも、洋子は動揺していた。彼女はまさに、新しい移民法についての記事の中で、アラブ系移民を見ればテロリストと思う類のイスラム恐怖症を批判的に取り上げたところだった。

 彼女は、正義感云々以前に、そもそもそうした差別意識に強い嫌悪を抱いていた。それは、人種的にも文化的にも、「純粋さ」という概念とは無縁の彼女自身の生い立ちのせいであり、また、自分はイラクに行って、実際にテロリズムを経験し、そこに暮らす被害者としてのイスラム教徒たちとも触れ合ってきたのだという自負があったからだった。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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