第六章 消失点(5)

リチャードは未だに洋子への連絡を絶やさない。本人だけでなくリチャードの両親や姉からも連絡がきて...。

 リチャードの持ち物も多少あり、婚約指輪もまだ手許にあった。話を切り出した時に返そうとしたのを、彼が置いていってしまったのだった。

 ニューヨークに郵送することも考えたが、高価すぎて、さすがにそれも躊躇われた。彼に対する罪悪感もあり、せめて手渡しで返せるくらいの終わらせ方にはしたかった。

 リチャードは、そういう洋子の気持ちに、一種の 揺らぎ 、、、 を認め、何かにつけて口実を見つけては、連絡を絶やさぬようにした。毎回、復縁を迫るわけではなく、つきあっていた時と何も変わらぬ調子で、明るく用件だけを伝えて電話を切ることもあった。まるでもう、すべては解決済みであるかのようだった。

 その一方で、翻意を促す共通の友人や彼の家族からの説得もあった。洋子はとりわけ、リチャードの高齢の両親からの手紙に胸が痛んだ。

 リチャードの姉で、彼自身よりもむしろ気が合い、洋子が家族になることを心から喜んでいたクレアとは、電話で二度話したが、蒔野の存在を伝えると、

「もうプロポーズは受けたの?」

 と、親身な口調で現状を確認された。洋子はそれに、「いえ、でも、……」と答えかけたが、クレアは、それで十分というふうに、

「わたしたち家族は、誰もあなたを責めない。本当よ。だから、どうか考えなおして。リッチーはあなたのことを本当に愛してる。姉のわたしから見ても、彼はとても思いやりのある、誠実な人間よ。頭も良くて、経済的な余裕もある。彼は苦しんでる。あんなに打ち拉がれた弟の姿を見るのは初めて。当然よ。彼の人生に、あなた以上の女性なんて、もう決して現れない。—だから、戻って来て。忘れましょう、もう。」

 と優しく言った。

 洋子は蒔野と、当たり前のように結婚を前提にした今後の生活の話をしたが、正式なプロポーズは受けていなかった。

 あの夜は、とにかく、抱擁の衝動が、ただ「愛している」という言葉以外の一切を振り切ってしまう一方で、ジャリーラのことも気懸かりで、その機を逸してしまった。

 帰国後は、蒔野もそのことを気にしていて、スカイプでの会話中に、一度仄めかされたことがあったが、洋子は微笑して、

「ちょっと味気なさ過ぎない? せめて面と向かって、触れられるくらい近くで言ってほしい。来月、日本に行くんだから。スカイプでプロポーズされても、画面に飛びつくわけにはいかないでしょう?」

 と首を振った。蒔野も、

「まァ、……そうだね。じゃあ、その時まで言葉は胸にしまっておくよ。ただ、そのつもりだってことは、知っておいてほしかったから。」

 と従い、それ以来、同じ話は蒸し返さなかった。

 しかし、洋子は自分でそう言ってしまったことを、後悔していた。

 結婚するということは承知し合っているはずだったが、七月の東京での再会予定が、八月後半に延期になると、言葉ではっきりと約束を交わしていないという事実に、彼女は少し心細さを感じるようになった。

 元々洋子は、今年のヴァカンスの休暇を、リチャードとクレアの家族たちと過ごす予定で、八月末に取っていた。行き先はカリブ海のカンクンで、リチャードは、その前に入籍を済ませて、この旅行をハネムーンにしたいと考えていた。披露宴は、洋子がニューヨークに引っ越してからで構わない。しかし、気分が出ないというなら、大学の冬休みを利用して、改めて二度目のハネムーンに出かければいい、と。

 洋子は会社に、その八月末の休暇を七月に変更したいと申請したが、ただでさえ、人手の少ない時期だけに難色を示された。辛うじてここならとギリギリになって七月後半の四日間を提示されたが、既にフライトに空席はなく、蒔野の都合も悪かった。

 蒔野は、八月で構わないと理解を示した。洋子自身も、仕方がないと思っていた。しかし、このほんの一月の些細な延期が、彼女に遠近法的な錯覚とでも言うべき不安を抱かせた。

 まっすぐに伸びた鉄道の線路は、彼方の消失点で結び合っているように見える。しかし、一駅経ても二駅経ても風景は同じであり、その平行する二本のレールは、当然のことながら決して交錯しない。現在から見て、いつか必ず一つになるように見えるその点は、いわば幻に過ぎなかった。

 リチャードとの結婚を機に、ニューヨークへの転勤願いを出していた洋子は、それを取り下げたことで、社内でちょっとした噂になっていた。そもそもが、イラクに二度も行った日系の“美人”記者で、しかも、本人は苗字も変えて黙っているが、実はあの《幸福の硬貨》の監督の娘だという目立つ存在だった。ニューヨークは、さすがに希望者の多い赴任地だけに、すんなりとは行かず、辞令が下った際にも、先に転勤届けを出していた別の部署の女性が、洋子に横取りされたと周囲に不平を漏らしていた。

 その洋子が、今度は東京に転勤したいと言っているのだという。理由は、結婚が破談になったかららしく、上司には説明していたものの、今度ばかりはさすがに、すぐにというわけにはいかなかった。少なくとも、この一、二年以内という可能性は低く、洋子は会社を辞めることを真剣に考え始めた。

 自分は蒔野と結婚する。それはまだ、言葉で確かに約束されたことではなかったが、実質的には婚約しているのと変わらなかった。

 実質的には。—そうだろうか?

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毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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