自由と自律を手に入れた麻布高校時代
—— はじめに、古川さんの高校時代のお話をうかがっていきます。古川さんは東京でも屈指の進学校である麻布中学・高校を卒業されていますが、ご両親は教育熱心だったんですか?
古川享(以下、古川) 教育熱心……というのとは、ちょっと違うかな。ぼくの兄は、筑駒(筑波大付属駒場高等学校)に通って、東大に入って、弁護士になったという人なんですよ。
—— それはまた、エリート街道一直線というか。
古川 そうなんですよ。兄がそうだと、弟もすごく期待がかかりそうなものでしょ。でもね、うちの親は「お兄ちゃんがいい学校に行ったんだから」というプレッシャーをまったくかけない人だったんです。中学受験も、「中高一貫校で受験なしに6年間を楽しむか、公立中学に行って高校受験をするか、自分で選びなさい」って言われたんですよ。
—— 選択肢を提示して、最終的には子ども自身に決めさせる。
古川 これはすごくいい教育方針だった、と思います。自分が通う学校を自分で選ぶというのは、大事なことです。
—— 麻布学園はいかがでしたか?
古川 麻布って、学校自体にブランドがあるでしょう。でも「麻布卒」というブランドよりも、個人のブランドを確立できるような教育方法をとっている学校でした。個を尊重してくれるので、自由気ままに過ごせて楽しかったです。しかも、ぼくらは麻布高校に通っているときに、革命を起こしたんですよ。当時のことを劇作家の鴻上尚史さんが『僕たちの好きだった革命』という舞台にしています。
—— そうか、古川さんが高校に通われていた当時って、ちょうど学園紛争が起こっていた頃だったんですね。
古川 大学生たちはみんな学園紛争に敗北していったんです、でも、ぼくらは勝利したんですよ(笑)。横暴な管理者の悪事を暴いて学校から追放し、自治と自由を取り戻したんです。実際に、いろいろなことを改革しましたが、そのうちの一つが制服ですね。当時、私立校も公立校も、制服を廃止する運動をやっていたんです。でも、ぼくらは制服を廃止するのではなく、「標準服」と呼ぶことにして、それを着るかどうかは生徒自身が選べることにしたんです。
—— 自分たちでルールを決めて、自由を勝ち取ったんですね。
古川 ブランドとしての麻布に憧れて来た人にとっては、制服がなくなってしまうのは残念なこと。だから、制服の存在を維持しながらも、生徒それぞれが自由な服装をすればいい、という結論に達しました。それからは茶髪の生徒もいれば、ピアスを開けてる生徒もいます。それでいいんです。今でも麻布は校則がまったくない。だからこそ、自分たちで自分たちを律しなければいけない。そういう考えが徹底されています。
—— その頃から、コンピュータに興味はあったんですか?
古川 ありました。秋葉原で電子部品を買って、テニスゲームができるゲーム機みたいなのを自作していましたね。組み上がったものを買うと29800円くらいするけれど、部品を買ってつくれば4500円くらいでできるんですよ。
—— では、大学は工学部に進学しようと?
古川 いや、大学では精神分析などの心理学を専攻したいと思って、そういう学部のある大阪大学や一橋大学を受験していたんです。でも英語が全然できなかったので、どこの大学も受かりゃしなかった(笑)。浪人生のときには、予備校に行くふりをしながら、御茶ノ水の「人生劇場」というパチンコ屋に行って、鉄道が好きなのでそのまま神田の交通博物館に行って、帰りは秋葉原のパーツショップに寄るという生活をしていました。
—— (笑)。
古川 この繰り返しで、人生の方向性がかなり固まりましたね(笑)。そのまま、3浪してしまいました。
英語の発音ができなくても、度胸があればビル・ゲイツと仕事ができる
—— 英語が苦手だったんですね。でもその後、古川さんはマイクロソフトの日本法人の代表になられて、それこそビル・ゲイツと仕事をされるようになったわけですよね。英語はどのタイミングで身につけられたんですか?
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