蒔野は、そうした洋子の話を、実際、自分の身内となる人間の話として聴いた。
初めて会った日の夜、いかにも遠い世界の現実として、瞠目しつつ耳を傾けた彼女の境遇は、今や彼が、この後一生、関与し続ける世界として眼前に広がっていた。
「人類」などという概念は、たとえ音楽家として考えるべきであったとしても、巨大すぎて持て余してしまうものだった。しかし、洋子を通じ、親族の一人として向き合わざるを得ないのであれば、何かしら具体的な手応えが得られるのかもしれない。そしてそれは、自分の音楽の姿を、また違ったかたちで見せてくれるのではないか。
蒔野は幸福だった。しかし、独り洋子のみが払った少なからぬ代償——本人は決して口にしないが、フィアンセとの婚約解消のみならず、その家族や知人らとの関係の整理、結婚式のキャンセルなど、煩瑣な負担の数々は計り知れなかった——によって得られたその幸福が大きければ大きいほど、彼は、自らのギタリストとしての停滞に耐えられなくなっていた。
マドリードのフェスティヴァルで精彩を欠き、若い新しい才能に圧倒されたことが、重たく心に伸しかかっていた。更にそれに追い打ちをかけることとなったパリのリサイタルでの失敗。……洋子との愛の成就は、彼を束の間慰めはしたものの、むしろそのコントラストによって焦燥はいや増した。
蒔野は、かつては当たり前のように満たされていた、あの創造的な生の充実が、今という時に、自分に完全に欠落していることの不遇を呪った。もしその音楽家としての幸福と、洋子の存在によって齎された幸福とが一致していたなら、今日という一日は、どれほど晴れやかな歓喜とともに過ごされたことであろうか?
彼は自分が、決してその後者によってのみ生きられる人間ではないことを知っていた。
音楽は、彼の生の根拠であり、彼が自分という人間に見出し得る、唯一の慰めだった。それは、他の何かによっては金輪際、代替されぬものであり、埋め合わせの利かぬものだった。演奏家としての不甲斐なさに恥じ入る今のような状態のままでは、いずれ洋子との愛の生活さえ享受し得なくなることは目に見えていた。
蒔野は、その苦悩を洋子に打ち明けなかった。彼女の愛の恩寵が、自分に何かを齎してくれるという期待に対してまで、彼は必ずしも禁欲的ではなかった。しかし、敢えて言うなら、宮本武蔵の「仏神は貴し、仏神をたのまず」のような心境だった。彼女に救いを求められることと、そもそも無理なこととがあり、意に沿わぬ助言をされて、腹でも立てている自分を想像すると、その愚かさに身の毛が弥立った。結局のところ、これまでいつもそうしてきたように、音楽家として自力で克服するより他はなかった。
無論、その音楽的な停滞の原因が、洋子にあるなどとは断じて考えなかった。
第一、不調の自覚は、彼女と出会う以前の昨年のツアー中から既に兆していた。新しい才能と出会ったプレッシャーもあった。洋子との愛が、それを今、一層耐え難く感じさせているというのは、皮肉な事実だったが、幾ら何でも、恋に現を抜かしたくらいでギターが下手になるなら、自分のこれまでのキャリアは一体何だったのかと思っていた。
しかし、驚いたことに、マネージャーの三谷は、どうもそう思っているらしかった。マドリードで蒔野の演奏が精彩を欠いたのも、洋子の存在に翻弄されているからであり、進行中のレコーディングの突然の中止など、昨年末来の彼の異変も、それ以外に考えられない。決して音楽家としての深刻なスランプなどではないのだと。
蒔野は、彼女の心配する気持ちを疑わなかったが、だからこそ、そうした短絡に苛立つところがあった。「音楽以外のことは、わたしが全部責任を持って引き受けますから。」という、いかにも
彼は、仕事の関係者を怒鳴りつけるような音楽家を、常々呆れて見ているだけに、自分のそんな口調につくづく嫌気が差した。しかも、このところ、そうしたことが何度かあり、相手は決まって三谷だった。自分でも不思議なほど、彼は彼女に、感情を逆撫でされるようになっていて、しかも、気落ちする彼女を見て、心底すまない気持ちになった。
これ以上関係が拗れるならば、担当を変えてもらった方がお互いのためかもしれない。そうは思うものの、年明けにレコード会社の是永が担当から外れたばかりだったので、さすがに立て続けとなると、自分の態度を疑う気持ちが強くなった。木下音楽事務所の中で、他に担当してもらいたいスタッフがいるだろうかとも考えてみた。そして、結局、三谷以上に自分の音楽に対して熱心な人間は思い当たらなかった。
蒔野は、思いきって仕事を整理し、自分を根本的に立て直すための練習をしたいと考える一方で、そんな闇雲の期待には懐疑的でもあった。
コンサートがあり、レコーディングがあるという日常が作り出すテンポの中で、もう二十年も演奏家としての技術を維持してきた。そうした外的な関与を排すれば、何か飛躍的な向上が得られるというのは、どことなく漫画染みた、苦し紛れの夢想のようでもあった。実際は、ただ途方に暮れて、だらしなくなってしまうだけではあるまいか。
年齢的に、今より豊かな音楽性が求められてゆく時に、そうした引きこもり的な“自己との対話”は、恐らく逆効果だろう。
実際、リサイタルをすべてキャンセルし、レコーディングも中断したままであるので、スケジュールには、例年になく余裕があり、その手帳の白さには、不安な眩しさを感じるほどだった。練習時間は必ずしも少なくはない。が、彼の困難は、そうしたがむしゃらな方法では克服できない類の停滞に陥っていることだった。
*
洋子のリチャードとの婚約解消は、なかなか先が見えないまま長引いていた。
さすがに、ただの恋人とのケンカ別れのように、もう一切連絡を取らないというような終わらせ方はしたくなかった。到底、諦めきれない彼からは、その後も頻繁にメールが届き、その幾つかには、情に絆されるものがあった。
二週間ほど経って、最初の動揺が治まると、リチャードは唐突に、洋子の「浮気」を「赦す」と言い出した。
命の危険をも顧みず、イラクになど行っていたのだから、いかに君が強い女性だと言っても、精神的に不安定になるのは仕方のないことだ。そういう時に、側に寄り添っていられなかった点については、自分にも非がある。裏切りは裏切りであり、深く傷ついたが、“マリッジブルー”の時期には、表だって語られないだけで、実はよくある話だ。
すべてを水に流して結婚しよう。自分はその「浮気相手」の何倍も君をよく知っている。まだ君が、可憐な——しかし、今と変わらず聡明だった——大学生だった頃から! 自分の愛情は些かも揺らいではいないし、むしろ強くさえなった。そのことを信じて疑わないし、君にも信じてほしい、と。
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