洋子は、その問いにすぐには答えられなかった。事実としては知っていたが、理由を深く考えてみたことはなかった。
それはやはり、実の親子としては不自然なことのはずだった。
蒔野は、自分の問いが、洋子の胸の裡の複雑な場所に触れたのを察したが、今はもう、それを怖れるべきではなかった。彼女が自分の内面に目を向けている間、彼は黙ってその姿を見守ったが、たとえ何も語られないとしても、その時間自体が、彼を一層彼女へと近づけることになるはずだった。
彼は、洋子が真剣に考えている時の表情が好きだった。彼女の人生に対する真面目さを愛していた。相手に対する答えは、常に同時に自分自身に対する答えでもあらねばならない。
そう信じている風の彼女の誠実さに、強く心惹かれていた。
「今はもう、父との関係も良好だけど、二十代の頃までは複雑だったから。……どんな事情にせよ、こっちは置いて行かれた身でしょう? そのことを父にあれこれ訊きたかった年頃には上手く英語を話せなくて、少しずつ話せるようになってからは、もう何も言わずに、そっとしておきたかった。母がスイス人と再婚して、ジュネーヴに移り住んでからは、縁遠くもなっていったし。少し色々話すようになったのは、大人になってからよ、わたしが。この十五年くらい。」
「お母さんは、再婚してたんだ? 二番目のお父さんのことは、よく理解してなかったな。それで学校がスイスなの?」
「話してないもの。わたし自身、寮に入っててほとんど一緒に生活してないから、新しい父親っていうより、母のボーイフレンドって感じね。経済的には随分と助けられたけど、愛着が湧かないまま、母がまた離婚してしまったから、わたしは彼とはまったく連絡取ってないの。」
「そう。」
「実の父の方は、……そうね、九年間も何してたのかしら? 今度会ったら訊いてみる。——それとも、自分で訊く? 紹介しないとね、早いうちに。」
「ああ、是非お願いしたいけど、緊張するな。……会ったばかりで、いきなりそんなデリケートな質問すると、無神経な人間だと思われるよ。」
「怖そうに見えるけど、優しい人よ。」
「それは、あんな映画撮ってるんだから、深い優しさのある人だと思うけど。」
「わたしには話さないことも、あなたになら話すかもしれない。アーティスト同士だし、父はクラシック・ギターが大好きだから。きっと気が合うと思う。」
「うちは両親とも亡くなってるけど、お母さんにも、近いうちにお目にかかりたいな。」
「そうよね。今度、長崎の実家に一緒に行く? 母も今は独り暮らしだから、帰国したら出来るだけ顔を見に行くようにはしてるの。」
「叶うなら、それも是非。」
「母はアーティストでも何でもないけど、大分変わってる。あの時代に、ヨーロッパのあっちこっちに行って、ユーゴスラヴィア人やスイス人と結婚してるんだから。」
「それは、どうしてなの?」
「本人は話さない、何度尋ねても。長崎にいるのが嫌だったとは言ってるけど。母は、——まだ記憶も曖昧な頃に被爆してるのよ。少し南の方だったから助かったけど。そのことでさえ、わたしにずっと隠してた。祖母にも口止めして。だから、わたし自身は、母から直接って言うより、大人になって自分で本を読んでから知ったの、原爆については。」
「家に行った時に、そういう本があったから、ひょっとしてと思ってたけど。」
「そう、井上光晴とか、林京子とか、……竹西寛子、原民喜、……小説だけじゃなくて色々、仕事の必要もあって。女性は、被爆者への結婚差別があったから、母の性格からすると、そういう重たいもの全部から、自由になりたかったんじゃないかしら。」
「……なるほど。」
「逃げ出したっていう負い目で、人生をどこか楽しみきれないところと、その反対に、後遺症の不安から楽しまなきゃって焦る気持ちと、どっちもあったって、父は言ってた。——父みたいな人に惹かれるのも理由があるのよ。理解してほしかったんだと思う。……わたし自身、どうしてイラクに二度も行ったのか、あれからまた自問自答してるけど、やっぱり、そういうルーツの問題もあるわね。あんまり認めたくはないけど。」
「もっと早く話してくれても良かったのに。」
「人間関係を、そういうところから始めたくないの。色気も何もないでしょう? もっとアピール・ポイントがあるのよ、わたしにも。」
「知ってるよ。結構、詳しい方だと思う。」
「ありがとう。——でも、今はもう、そういうことも、知っておいてほしいから。」
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