窪美澄 後編「地獄みたいな話を読むことで救われてきた私がいる」

窪美澄さんが、1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件を題材にした小説『さよなら、ニルヴァーナ』を上梓しました。実際の事件をモチーフにしながら、フィクションに仕立てあげた作品。ノンフィクションではなく、フィクションで描く意味はどこにあったのでしょうか? お話をお聞きして、見えてきたのは「小説でしか踏み込めない領域」でした。

事件が起きた街の話を聞いて、そこからすべてが始まったと伺いました。執筆するうえで、現地には足を運んだのですか。

 ええ、最終章を書く前に行きました。話に聞いたとおりの街でした。小中学校は夏休みの時期で、駅前はすこし賑わいをみせているけれど、住宅街に入っていくとほんとうに静かで。街を抜けるとタンク山があって、殺害現場になった貯水タンクが見える。日々これを目にしながら暮らしている人たちの気持ちってどんなものなんでしょうね。それにしても、びっしりとたくさん住宅があるというのに、異様なほど人の気配がない。

でも、見たところは全国どこにでもありそうなベッドタウンなのですよね。ということは、日本のいたるところに、不気味な気配が立ち込めている?

 事件を知っているからそう感じたのかもしれませんけど、いろんな地方都市の郊外で同じような雰囲気はあるんじゃないかとおもいます。暑い時期でどの家も窓を閉め切ってエアコンをかけている。けれど、それは室内を冷やすためというよりも、何か悪いものが入ってこないように戸を閉ざしているんじゃないかという感じがしましたね。

最終章を書く前に訪れた、そのタイミングには意味があったのですか。

 いえ、たまたま神戸に行く用事があって、半日空いたので行ってみようと。地下鉄に乗って、ひとりで見てきました。

現場を見たことで、作品に影響や変化は?

 私自身が影響を受けてしまって、体調を壊しました。書けなくなってしまって、「別冊文藝春秋」で連載をしていたんですが、一度休載しています。

それが現場や事実の持つ重み、ということなのでしょうか。生身の人間が受け止めるにはあまりに重いものであるというか……。

 どうなんでしょうね。私はあくまでもフィクションを書いているのだけれど、起点となる事実はたしかに何より大事ではあります。神戸で地震に遭った少年が、殺人を犯した。その出来事を、東日本大震災を契機にまたありありと思い起こす。そうした事実こそがまずは大切なんですよね。

では、そうした事実をもとにフィクションを書くことの意味はどこにあるのでしょう。

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文学者の肖像

山内宏泰

文学とは、なんなのか。文学者たちは今をどうとらえ、いかに作品に結実しているのか。言葉に向き合う若き作家たちの「顔が見える」インタビューシリーズです。

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コメント

purple_and_p カズオ・イシグロ絡みで散々呟いたけど、「フィクションの意味」がたぶん、ここにも。: 2年以上前 replyretweetfavorite

reading_photo 【News更新】cakes連載「文學者の肖像」、更新しております。 2年以上前 replyretweetfavorite

manaview 「最初の舌触りが悪くて不愉快さを伴ったとしても、私や読む人がこれまで考えの至らなかったところにまで届くのだとしたら、フィクションを書いた意味がある」 2年以上前 replyretweetfavorite