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プリンセス・オブ・ウェールズこと、ダイアナ元英国皇太子妃の死亡が宣告された日時は、一九九七年八月三一日日曜日の午前四時と報じられている。
パリ市内にあるラ・ピティエ・サルペトリエール病院の集中治療室で、彼女は息を引きとっている。
その三時間四〇分ほど前、ダイアナ元妃は恋人のドディ・アルファイドとともに黒塗りのメルセデス・ベンツS280に乗車し、オテル・リッツ・パリを出発している。
人目を避け、リッツのインペリアル・スイートでルームサービスをとり、ディナーを済ませたふたりは、アルファイド家所有のアパルトマンへと隠密裏に帰ろうとしていたのだ。
運転は、リッツの警備部門副主任の立場にあったアンリ・ポールが担当した。
助手席に座っていたのは、ドディ・アルファイドのボディーガードを務めていたトレヴァー・リース・ジョーンズ。
彼らの使命は、後部座席で身を寄せあう超VIPカップルを、アルセーヌ・ウッセー通り沿いのアパルトマンへと安全かつ迅速に送り届けることだった。
それに加え、バイクを駆って追走しながらシャッターを切りまくるパパラッチの集団にチャンスをあたえず、うまく逃げきることがもとめられてもいた。
しかし結果は最悪なものとなる。
午前零時二〇分に、ホテル裏手のカンボン通りより走りだしたベンツS280は、リヴォリ通りからコンコルド広場を経てクール・ラ・レーヌ通りを疾走し、アルマ広場下のトンネルへと向かう。
その間、ベンツS280は危険な加速をつづけた末、追手の一部をはるか後方に引き離す。時速三一マイル(時速約五〇キロ)に速度制限された道路で、運転手アンリ・ポールは時速六三マイル(時速約一〇〇キロ)までスピードをあげていたのだ。
アンリ・ポールは当初、アルマ・トンネルには入らず、入り口の手前から異なるルートへそれるつもりで運転していたと見られている。
だが依然、五台のバイクに追尾され、やがて追いついた幾台かには行く手をさえぎられてしまう。そのためプリンセスら四人の乗ったベンツS280は車線変更ができなくなり、トンネル内へと直進せざるを得なくなったのだ。
この、追手に進路を狭められたなかでの無闇な速度超過が命とりとなる。
ベンツS280が、アルマ・トンネルへと進入する直前に出していたスピードは、時速七四マイル(時速約一一九キロ)から時速九七マイル(時速約一五六キロ)のあいだだったと言われている。
それほどの高速度で運転をおこなっていたアンリ・ポールは、トンネルの入り口にさしかかった際、前方をのろのろと走っていた白いフィアット・ウーノをよけきれず、軽い接触事故を起こしてしまう。
その影響でさらに進路がふさがれてしまうが、アンリ・ポールはブレーキを踏まずに乗りきろうとする。二度目の接触を回避するべく、フィアットを強引に追いぬいたベンツS280だったが、進路上にまた別の車が一台あらわれる。
当の車──シトロエンBXをよけるために、アンリ・ポールはとっさにハンドルを左へ急回転させる。
するとそれにより、ベンツS280はスリップして制御不能となってしまう。
今度は前方から、中央分離帯の白く四角い柱が物凄い勢いで迫ってくるが、アンリ・ポールはここでシフトミスを犯してしまい、ベンツS280はなおも暴走しつづける。
中央分離帯と車との間隔が六四メートルにまで縮まったところで、アンリ・ポールはようやっとブレーキをかけるが、そんな対処はもはや焼け石に水でしかない。四人の乗ったベンツS280は、時速六五マイル(時速約一〇五キロ)を超える猛スピードのまま、トンネルの支柱のひとつに正面から激突してしまうのだ。
時刻は午前零時二三分──つまりこの、偶然にしてはできすぎの衝突事故が生じたのは、四人がホテルを発ってたった三分後のことだったのだ。
ドディ・アルファイドとアンリ・ポールはほぼ即死の状態だったようだ。
彼らの死亡が医師により正式に告げられたのは、午前一時三二分のことである。
アンリ・ポールの遺体からは、多量のアルコールと抗鬱剤が検出されており、飲酒運転が事故原因のひとつだったとフランス捜査当局は判断している。
助手席にいたトレヴァー・リース・ジョーンズは、顔面の左半分がひしゃげるほどの大怪我を負いながらも、幸運にも一命をとりとめている。
事故報道がなされると、あまりに突然の悲劇に大勢の人々が不審を抱いてゆく。
ふたりの王子の母親が、武器商人ともゆかりがあるとされるアラブ系の富豪一族との関係を深めるのを、英国王室は決して快くは思うまい──かような推定を根拠に、この事故はMI6が仕組んだ謀略ではないかとの疑惑が立ち所に浮上する。そして本件は、のちに英国捜査当局が調査に乗りだし、謀殺説を否定するに至るのだ。
午前一時二八分──すなわち事故発生より一時間超が経過してからようやく、重態のダイアナ元妃が救急車に乗せられている。残骸と化した車内から彼女を救いだすのに、それだけ手間どってしまったのだ。
しかもプリンセスは当時、心臓にいちじるしい衰弱が認められるほどの危うい容態にあった。
そのため搬送中も救急車をゆっくりと走行させなければならず、病院までの約六キロメートルの道のりの途上、二度も停車する必要があったという。瀕死のプリンセスが、ラ・ピティエ・サルペトリエール病院の集中治療室に運びこまれたのは、午前二時六分をまわった頃のことだ。
昏睡状態にあったダイアナ元妃に、手はじめに人工呼吸器が挿管される。
レントゲン写真により、おびただしい内出血が確認されたため、すぐに開胸手術が実施される。
すると彼女の体腔は、きわめて深刻な事態に陥っていることが明らかとなる。衝突時の凄まじい衝撃により、心臓が定位置から右側へと持ってゆかれ、心嚢は破裂し、心臓と肺をつなぐ肺静脈が引きちぎられてしまっていたのだ──そのせいで、胸腔には大量の血があふれ、沈没寸前の船内のごときありさまを呈していたのである。
医師や看護師らにより即、血液除去、輸血、アドレナリンの投与がくりかえされたが、状況の好転は見られない。暴走車さながらに悪化の一途をたどる容態に対し、それらの処置のなにもかもが手遅れだったのだ。つづいて直接の心臓マッサージが、一時間以上にもわたってほどこされたというのだが、この最後の努力によってしても、英国の薔薇を今世に引きとめておくことはかなわなかったのである。
かくして一九九七年八月三一日日曜日の午前四時、ダイアナ元妃は帰らぬ人となる。
事故直後、大破したベンツS280の後部座席で朦朧となっていた彼女の顔は無傷に近く、むしろ清らかで美しいくらいだったことが──唯一の生存者たるトレヴァー・リース・ジョーンズの著書には記されている。
額や鼻や口から鮮血をしたたらせながらも、プリンセス・オブ・ウェールズはそのとき、静かに眠りについているかのようでさえあったという。
(つづく)
阿部和重 『クエーサーと13番目の柱』の続きは紙もしくは電子でお読み頂けます!
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