寺田憲史の原点
—— まず脚本家・シナリオライターという”物書き”になったきっかけというのは?
寺田憲史(以下、寺田) かなり、遡った話になってしまうんですけど、僕は中野の生まれなので、近所に漫画家の方が多く住んでいたんですよ。それで、週末になると漫画家の家に行ってベタ塗りの手伝いとかさせてもらってました。
—— それは学生時代ということでしょうか?
寺田 いやいや、小学生のときですね。
—— 小学生ですか!?
寺田 はい(笑)。当時って漫画雑誌に漫画家の住所が書いてあって、ファンレターを直接出せるようになっていたんですよ。家から近いところが多かったので、直接おしかけて漫画家の方にサインをもらったりしてましたね。漫画家さんによっては忙しい方もいらっしゃって、「これで勘弁して」って生原稿をくれたり。
だから、仕事場に生原稿が多く飾ってあるんですけど、それらは当時もらったものばかりですね。たぶん、元祖漫画オタクという感じだったのかなと。
(仕事場に飾ってある生原稿たち。手塚治虫、ちばてつや、吉田竜夫というレジェンドたちの原稿ばかり。)
寺田 それで、小学6年生くらいのときにアトムのアニメを見て、すごい衝撃を受けました。それまでは漫画家になりたいって単純に思っていたんですけど、アトムがきっかけでアニメーションとか映画を作りたいなって思うようになりました。
その想いが募って、大学生のときに、当時ガッチャマンをやっていたタツノコプロでバイトを始めました。アニメーター志望で行ったんですけど、学生だし授業もあって毎日は行けないから、特殊効果のエアブラシを教えてもらったんです。後で、宇宙戦艦ヤマトの波動砲とか、僕が書いていたんですよ(笑)。
—— そうなんですか! もともとは絵描き志望だったんですね。そこから、絵ではなく話を書くようになったのにはどのような経緯があったのでしょうか?
寺田 絵描き志望というか、監督をやりたかったんですよね。シナリオ書いて絵コンテ作ってっていう。それで、大学2年のときに、日活が「キャンパスポルノ」っていう学生にポルノを撮らせるというのを企画して、学生の監督・脚本・キャストを全国的に募集したんです。監修が代々木忠さんと山本晋也さん。
まぁポルノなんで、どうなんだろうなって思ってたんですけど、タツノコプロで可愛がってくれていた先輩が「ポルノもアニメもシナリオには変わらないだろ」って言ってくれて、みなしごハッチとか当時やっていたアニメのシナリオをごっそり僕にくれたんです。それを読みまくって、へぇシナリオってこう書くんだぁみたいに勉強して、キャンパスポルノのシナリオを書いて応募したんです。
—— では、そのキャンパスポルノで脚本家デビューされたんですか?
寺田 いや、最終審査の10本のシナリオには選ばれたんですけど、結果的には落ちました。でも、最後まで選考に残った人は、全員スタッフとして採用されたんです。この中には、大森一樹もいました。
このキャンパスポルノで初めて助監督を経験して、監修のお二人からも薫陶を受けて、実写の映画も面白いんだなって思いましたね。そこからは実写の助監督とアニメのエアブラシ・制作進行の仕事を並行してやるようになりました。だから、「コドク共有」の義人は、僕の仕事体験がそのまま元になっています。
“手塚番”として出会った手塚治虫
–––– なるほど。その後の進路は、どういった道を?
寺田 大学卒業するころには、実写の助監督をしてても食べていけないっていうのがわかっていましたのでね。就活もうまくいかず、アニメーションの現場で仕事をするようになりました。
エアブラシ、制作進行から次第に演出助手をやらせてもらえるようになり、そのうち絵コンテも描くようになりました。古い作品ですけど、「ダッシュ勝平」とか「パーマン」「おはようスパンク!」「モンチッチ」などは、僕が絵コンテを書いて演出している回もあります。
そのうちに、僕がシナリオを書きたがってるというのを聞いたプロデューサーが、ライターから上がってきたシナリオを僕に書き直させるなんてことになりましてね。今思うと、人のシナリオをこっそり直してたんですから、とんでもないですよね(笑)。
そうやってシナリオを直したり、絵コンテ・演出などをしていたら、カラー版アトムの担当演出の一人としてお声がかかったんですよ。でもそこには、上に3人くらいベテランの演出家がいて、その人たちから「君、シナリオも描きたいなら文芸担当やらないか?」って振られたんです。
そうなれば、小さいころからの憧れだった手塚先生とも直接お話しできる。ところが、手塚先生はシナリオに対してものすごくアイデアを持ってる人なので、じつは大変な思いをすることになるんですよ(笑)。
—— 文芸担当って何をされるんですか?
寺田 簡潔にいうと、手塚先生とライターの間に入るんですね。シナリオ打ち合わせのセッティング、打ち合わせ、あと原作から僕がエピソードを選んで先生がOKだしたものをライターに発注したり、プロット書いてもらったものを監督やプロデューサーたちと練ったり。
ライターさんっていうのは、悩みこんで書けなくなってしまうこともあるから、そんな時には、僕が代わりにアイデアを出したり、プロットの下書きをしたりするようになりました。
当時のTV局のプロデューサーも結構シナリオに拘る人だったので、ライターに六稿、七稿と書いてもらったりしましたね。すごい大変な職業だなと感じましたよ。一話三十分のシナリオに、半年から10ヶ月くらいかけてました。そして何より大変だったのが、手塚先生からシナリオのOKをもらうことだったんです。それが僕の最大の使命でした(笑)。
—— では、手塚先生と直接対峙することになるんですね......(笑)。
寺田 先生と打ち合わせして、「すみません、OKでませんでした」って帰ってきてしまうのでは、仕事していることにならないですからね。ただ先生は、若い人の話はよく聞いてくれる方なんです。ライターの書いたシナリオで気に入らないところがあると、「じゃあ、もともとの設定をこういう風に変えましょう」って提案がでてくるんです。
僕はそれを必死に書き留めるんですけど、流行りを取り入れたりしながらその場でどんどんおもしろい設定を先生が加えていくんですよ。それで、おもしろいなぁ〜と思って書き留めてると、気付いたらまったく別の話になってたり(笑)。
—— やはり、逸話通りの方なんですね(笑)。
寺田 それで、「結局、こういう話になりました」って引き下がってきてしまっては、子供のお使いになってしまいますよね。で、先生の仰ったアイデアと元々のシナリオをどうやったら折り合いがつくかって、その場で頭を使いましてね。天才を前に、ほんと鍛えられましたね、あの時は。
あの経験がなかったら、後のシナリオデビューは、さらにずっと先だったと思います。これを40本以上やりました。手塚プロの前身虫プロにも、文芸担当は「手塚番」と呼ばれた意味を、存分に味わされましたよ(笑)。
そのおかげで、シリーズの制作後半には、もうライターの人に変わってぼくがプロットを作って、あらかじめある程度先生の許諾をとっておき、その上でライターに発注する、といった形になっていましたね。
当時、まだ大して飲めなかったんですが、ライターに飲みに誘われて「シナリオのあの部分悩んでるんだけど、どう思う?」なんていう相談をされるようにもなりました。「ガンダム」「宇宙戦艦ヤマト」や「あしたのジョー」などを書いていた当時の売れっ子ライターたちと、こんなふうに親しくなれたのも、共通の「巨人」手塚治虫のおかげですよ(笑)。
—— なるほど。では、ライターとしてデビューするのはその後になりますよね? テビューはどのような作品だったのでしょうか。
寺田 デビュー作は、ちょっとエッチなアニメで当時話題になった「まいっちんぐマチコ先生」ですね。これは先輩が紹介してくださって。もともと学研がやるということでかなり話題にはなっていたんですけど、いくらでもシナリオ書かせてくれるっていうので喜んで引き受けました。
マチコ先生って、アニメを作り始めた当時、漫画の連載がまだ3回くらいしかやっていなくて、メインのキャラクターは5人くらいいるんですけど、シナリオ自体はほとんどオリジナルストーリーで作るしかありませんでした。結局、PTAからの突き上げにあったりしたけど、視聴率が良かったので2年くらいは続きました。その7割くらいのシナリオは、僕一人で書きましたね。まだ無名で、この仕事一本でしたからね。
FFのテーマは、「ゲームで人を泣かせる」
—— 寺田さんの経歴の中で、一番大きく扱われて出てくるのが、FFだと思いますが、こちらはどういった経緯だったのでしょうか?
寺田 スクウェアの創業者の一人が、僕の高校時代の友達だったんですよ。ファミコン時代なので、ゲームの現場は、アニメよりもひどい状況でね。友人が集めた学生のゲーム開発者は、みんなアニメのファンで、僕がシナリオを書いていた「スペースコブラ」や「キャッツアイ」を夢中になって見ていたのだそうです。
それで、ぜひ会いたいと。そのときにいたのが坂口(坂口博信:FFの生みの親)だったんです。あとは、デジキューブを作った鈴木とか、スクウェアの初期の代表作を作った連中もいましたね。それで後日、坂口が「ゲームで人を泣かせたいんですけど。力を貸してくれませんか」って僕を訪ねて来たんです。
—— 「ゲームで人を泣かせる」、ですか。
寺田 人を泣かせるシナリオというのは、そのキャラに対して感情移入していけるような状況を細かく作りこみ、それをドラマにしたてていく必要がありますよね。ゲームのシナリオなんて書いたことないし、ゲームでそんなことができるんだろうか、って正直思いました。
僕自身、ゲームをやったこともなかったですしね。ただ、彼らと何度も打ち合わせをしているうちに、この新しいメディアでもやりようによっては、そうした映画的な感動を与えられるのではないかと思うようになりました。
当時、「キン肉マン」のシナリオを書いていたんですけど、原作のギャグ漫画的な要素よりも、浪花節的な部分を膨らませてドラマにしたりしていたんですよ。時に、プロデューサーや監督たちから”泣かせの寺田”などと言われることもあり、すこし調子に乗っていた時期でもありました(笑)。
そうなると、豚もおだてりゃぁ木に登るタイプでもありますので、ゲームとして成り立つようなシナリオの構想が、結構ふつふつと湧いてきたのを覚えています。
—— あれだけ大きなヒットになりましたが、FFを書く前と書いた後で、なにか変化はありましたか?
寺田 正直にいうと、一作家ということからいくと悪いことの方が多かったかもしれません。FF3まで関わったんですけど、結局どこに言っても”FFの寺田”になってしまって。アニメ業界からは、ゲーム側の人間だと思われてしまっていて、かといってゲーム業界ではスクウェアの社員だと思われてしまっていたんです。それで38歳くらいのときには、ほとんどアニメの仕事がこなくなってしまいましてね。生意気でしたからね、たぶん、やっかまれたんでしょう(笑)。
当時、小説はすでにいくつかの出版社から出していましたのでね、ちょうど大陸書房という出版社からファンタジーものを三巻まで書き下ろすことになっていたんです。なので、アニメの仕事が来ないならそれでもいいわい、その仕事を持って海外で過ごせればいいかなと無謀にも思いたちましてね、シアトル移住したんです。
僕は物書きのくせに、わりと思い立ったらそれっ!っていう軽率なところがあるんです(笑)。一人息子がまだ小学校3年のときですね。前から海外で生活したかったというのもあったので。ところがアメリカに行ったら、その大陸書房がつぶれちゃったんですけども(笑)。
まぁとりあえず捨てる神あれば拾う神ありで、なんとかシアトル生活は二年ほど続けることができたんですけれども。そういう意味で、FFは、僕にとっては善し悪しという感じではありますね。
—— 壮絶ですね。その後、ゲームの仕事もやられていますが、そちらに関してはいかがでしょうか?
寺田 今も韓国のオンラインゲームなどに企画から携わっています。日本の映画やアニメ、TVドラマなどは、漫画やゲーム、小説などの原作物ばかりなので、じつはシナリオライターとしてはなかなかオリジナリティを発揮しにくいんですね。オリジナルの企画は、ほとんど採用されないし。
その点、ゲームの企画では、ぼくのオリジナルを要求されますし、また最先端の技術にも直に触れられるので、非常にいい刺激を受けるんですね。
作家として日々感じていることを、たとえば西洋ファンタジーの物語の中にさりげなく滲ませていくとか、ある種現実の社会をシニカルに風刺することだってできる。それでいて、マーケットが広いので、幅広く海外にも受け入れられるエンターテイメントでなくてはならない。
またオンラインゲームは、ある意味でネバーエンディングストーリーでもあります。結構作家としては、タフな発想を要求される世界なんですよ。でも、最近のハリウッド映画でよくできたシナリオに出くわしたりすると、「うーん、まだまだすごいクリエイティブワークの現場があるんだな」って打ちのめされたりします。
その意味では、もっともっと大きなメディアにこれからも挑戦していきたいですね。もっともここで連載させていただいてる「コドク共有」は、そういったスケール感とは対岸にあるような作品かもしれませんけれども(笑)。
cakesにて連載中の「コドク共有」ついて、どのような想いを込めたのかを語った後編は、こちらから。